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馬と人間のコミュニケーションの世界をより良きものにするために
馬との関わり方など、テキサスから真摯に想いをシェアするべく書いて行きます。
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以前仲良くしていた馬友が別の土地にご主人の仕事で、約2年ほど引越しました。が、最近、またテキサスに戻ってきました。何も知らなかった私を外乗によく連れ出してくれて、とても親切に助けてくれた友人でした。ところが、2年経って彼女が戻って来て、また楽しく一緒に外乗できるのかと思っていたところ、なんだか前と様子が違います。2年の間に彼女が私に馬を教える関係ではなく、逆に私が彼女に教えることができる関係になってしまったのです。しかし、どうもそれだと按配が悪い。
彼女が教える人で私が教わる人という縦の関係を保っている限り、私たちの友人関係は上手くいっていました。私はどちらが上でも下でも構わないので、彼女が帰ってきた後もそのままの関係でいようと思っていました。人に攻撃されたり無理強いされない限り、自分が上に立っていなくても、人の下で指示される立場で心地よく過ごせます。ほっておいてくれさえすば、それでOK。人もほっておきます。一番好ましいのは、お互いがインディペンデントな関係で、お互いの意思を尊重でき、適度な距離を保てる友人関係でしょうか。うちの夫とは、この関係が築けていると思っています。
でも時々、余計なことをする人もいます。人を上に立たせておけば気分よくいられると感違いして、変に気を回して無理におだてたりする。それは、その人自身が人におだてられたらうれしいということを表しているのだろうと思っているのですが、正直、小ざかしい細工をしているように見えてしまいます。そんなことよりも、人の評価など気にせず、自分自身にカンファテブルに素直になって、人と正直な付き合いをすればいいじゃないって思うのです。子どもとか動物はそういった小細工をしないので楽ですよね。大人になると色々な観念が出てきて、そして自分の見解で人も見ているだろうと思ってしまうので、敢えて、自分の見解というものを外す努力が必要です。私自身いつも自問自答しています。”白紙の状態にして見ているのか?”と。
で、彼女との関係はお互いがインディペンデントなのではなく、Codependentの匂い、つまり共依存の影を感じているのでありました。数年前、友人は私に必要とされる立場にいました。いつもフガフガしているサニーと一緒にトレイル・ライドに行っていたので、実際、私は彼女の助けを必要としている人でした。ちなみに彼女は他の友人でも、彼女を必要としている人ばかりを選びます。”共依存”というのは、人に依存されることによって、自分が必要とされている人間だと思うこと。そういう人は一見、面倒見がよく優しい人に見えますが、実は依存している人と同様に、自分も他者との関係に依存しているという・・・ちょっと複雑。例えば、アル中でDVの奥さんに依存している夫でも、その奥さんは自分がそういった病気の夫に必要とされている故に離れられない、というケースはちょっと極端な例ですが、これは心理学を知っているいないに関わらず、コモンセンスをもって見れば、誰にでも納得のいくことだと考えます。
それで、その女友達と最近トレイル・ライドに何回か行きました。すると2年前の私には、自分のことで忙しいかったため気づけなかったことが、ポロポロとたくさん見えるようになっていました。例えば彼女の馬が飛び跳ねたり、バタバタしたり・・・そんな時に私の中では、今ならどうしたらいいのか多少はアドバイスできることがあります。ところが彼女には教えてあげられないのです。なので、ただただ氣を抜いて、ニュートラルな状態にして見ているしかありません。ニュートラルな状態というのは、見ていることを善い悪いのジャッジメントなしに、見てない感じで何も考えないで見ている状態。つまり能動的にアホになっている状態ですが、ただアホになるのって結構難しいです。あ、でも、それプラス彼女の馬に(大丈夫だよ~)という気持ちを送るようにしてはいます。
なぜ黙って見ているかと言いますと、彼女にプライドがあるからです。特に馬がバタバタしている時に、”怖い”と思っている彼女は感情的になっています。そんな時に私が横から口を出したからといって、いい結果になるとは思えないのです。なので、そういう時はそのまま静かに傍に立っているだけしか、手立てがありません。人間、正しいことをそのままストレートに言われたら、むっとしませんか?それは自分の中で、そうじゃないかなと思っている故に、余計に人に言われたらむかつくんですよね。しかも彼女からしたら私は、彼女を必要としている人であって欲しいので、それを急激に逆転させてしまっては、彼女の面子が立たなくなってしまいます。
人に言われて学びたいというよりは、自分で学んだ、自らの力で体得したと思った方が気持ちがいいし、自分で考えて腑に落ちて学んでいるのですから、血となり肉となります。でも、学ばせてくださいという状態もありますよね。その場合は師と認めている人からの学びは、喜んで受け入れますという状態ですから、大人でも自分が認めている人からのアドバイスは素直に聞けます。子どもの場合、まだ自分の考えややり方ができていないので、上から一方的に学びを与えられるという状態に甘んじてくれますが、でも大人は往々にしてそういう訳にはいきません。多くの人は多くの場合、自分で学びたい。自分で気づきたい。そうじゃなかったら学びは入っていかない。ま、そんなところじゃないかと思うのです。
私は馬は人に心の在り方を教えてくれる、素晴らしいティーチャーだと思っているのはこの点にあります。それは馬を使えば彼らが鏡となって教えてくれるからです。なので人が他の大人を捕まえて、「あなたにはこういう欠陥がある」なんて言う必要ないんですね。馬が有無を言わさず、自分の欠点を態度で教えてくれますから。但し、馬から学べる人というのは、馬を一個のワイズな生き物であると尊重できる人に限るとは思います。馬をただ人間に服従させる動物で道具のように考えている人は、馬と何年も関わっても学べることは少ないでしょう。しかし人間力を磨くために、馬は素晴らしい先生です。私自身、毎日馬たちに学ばせてもらっています。彼らは当然、言葉で教えてくれているわけではなく、彼らからの学びは言語で理解できる学びばかりではありませんが・・・。
友人の話に戻りますが、彼女には助けが必要なのですが、かといって私が中に入っていくことは今はできません。なので何気に私の先生を紹介しました。そして彼女も週一回クリスティーから教わることになりました。クリスティーは11年間、競馬の騎手をしていた人で、今はバレルとかドレサージを教えています。
先週の日曜日もレッスンがあり、私たちはレッスン後にみんなで一緒に外乗に行きました。その時、友人の馬がフガフガ状態になってしまい、彼女はその馬からおりました。それを見ていたクリスティーはしばらく静かにしていた後、友人に「その馬から下りたら、馬がフガフガしたらこの人は下りてくれるって教えていることになるから、今すぐ乗った方がいいわよ」と言いました。友人はちょっと興奮気味にクリスティーに「危険だと思ったから乗らないのよ!」と強く言い返しました。日本人だと先生に言い返すということは少ないと思いますが、アメリカ人は自分が納得しないと平気で言い返します。しかしクリスティーはそのリアクションに動ぜず、しばらく沈黙して一呼吸おいてから、友人に言いました。「大丈夫だから。乗ってみなさい。見ててあげるから。」と。
矢継ぎ早に言うのではなく、クリスティーの沈黙は友人に考えさせる時間を与えました。きっと彼女は馬にもいつも、こうして考える時間を与えて教えているため、人間にも自然に”考える時間を与える”ことが身についているのでしょう。私は絶妙なタイミングだなと思いつつ、氣を抜いた状態でこの様子を見守っていました。
また馬に跨った友人にクリスティーは言いました。「何もしないで。そのままでいいから。」と。クリスティーはそれ以上なにも言わず、ただ静かに馬に乗って立っているだけでした。すると友人の馬が落ち着いてきたので、クリスティーは何も言わず馬を前に進めました。その時は、その前にあった馬や人間が興奮していた状況など、何も起こらなかったような感じでした。1分前のことでも過ぎ去った過去です。その後、何の問題もなく私たちは牧場に戻りました。
しかし、友人の中では色々な感情が駆け巡っていたようでした。果たして馬はどうかと言うと、何もなく過ぎた時間によって、彼らはすでにそんな過去のことなど何も考えていず、ハッピーに草をハムハムしているだけ。人間もそういう風に気持ちをすぐに切り替えられるようになったら楽ですね。ところが、人はそうはいかないんですねえ。遠くからでも友人の体からは、彼女が自身に対する憤慨している様子が発せられているように見受けました。共依存するということは、自分に自信がないからです。彼女は自分に自信がないため、表面的に大きく見せてしまう。そして、これまで馬のことでは人に褒められる状況にしか参加しなかったのです。
そして、この後彼女は私にこう言いました。「あなたが誘ったから、私は今クタクタになっちゃったのよ。」と。自分の憤慨の行き場をどうしたらいいのか分からないので、たまたま傍にいた気心知れている私に、甘えからそう言ってしまったのだと思います。でも私はそれに反応しないで、君子危うきに近寄らず。「あれ?どうして私が今のあなたの絵(状況)の中に出てくるのかしら」と言い、その場をシラーっと離れました。ちなみに私が誘ったのは、彼女がレッスンを終わった後に、「この後トレイル・ライドに行くんだけど、一緒に行ける?」と聞いただけ。誰も無理強いなんてしていないのですが、きっと彼女はプライドが傷ついた憤慨の矛先を自分自身に向けることができず、自分の外に向けてしまったのですね。しかし、めちゃくちゃなことを言うよなあ。子どもと一緒。でも子どもじゃないから問題。
自分を見つめるのではなく、何かに依存すると頭にくることが増えるんです。人が悪いとか状況が悪いとか。でも、たとえ頭上に飛んでいる鳥に糞を落とされたって、それは自分で起こしたこと。一体今の自分にこの糞が何を教えてくれているのだろう?(笑)と考えることができれば、周りの状況や人に憤慨することなどなくなり、何からでも学ぶことができるようになります。なんて偉そうに書いている私も、憤慨することはあります。ただ時間は短いです。3分くらいです。
頭の思考回路にいつも”何を学べってことなのか”と考える習慣を作ると、そのサーキットが開けてくるので、(自分に嫌な何か起こった)→(何を学べってことなのか)→(学ばせてくれている物事や人に感謝)という、ループに辿り着く時間が短くなっています。多分これは単に、そういう風に練習するだけで誰でも体得できるものだと思うんですね。頭の中の思考回路のラインをそう思考することで太くしていくような、物理的に回線を作るという風に考えれば、誰にでもできることだと思うのです。
ところが、そうは言っても稀にですが、頭の中でグルグルと考えていて、なかなか学びに繋げることができないこともあります。そういうものこそ、自分自身にとって本当に必要な学びなんです。私の場合は心に引っかかることがあると、なんでこのことがここまで心に引っかかっているのか、なんでこれは自分にとってイガイガするのか、こういうことにこそ自分の問題があるのだろう、とその原因が何なのか、自分自身の外ではなく、自分の内側に答えを探すようにしています。大概は自分の内側に問題がありますから、いや、大概じゃないですね。全てのことは自分の内に答えがあるんですね。
私はこの友人にもそのことに気づいて欲しいと願っています。なので、彼女との距離は少し置いておこうと思います。彼女には今は外に目が向くよりも、甘えさせてくれる私が傍にいないで、彼女自身の内側に目が行って、沈思黙考する時間が必要。その間、彼女が何を選択するのかは私にはコントロールしようがありませんが、どちらに転んでもそれでよし。必要とされた時だけ関係を持つようにしようと思います。
しかし!だから、人間との関わりは面倒くさいっつーんだ。馬とだけ付き合っていれば、こんな余計なことを考えなくたっていいんだからね。ただ、こういうことも私自身の学びのプロセス。生きているうち、毎日が日常生活の中で学ばされているのでしょう。何はともあれ、この友人とは依存しない依存されない友人関係を持てるよう、彼女から少し離れて心から愛を送ります。なので彼ら夫婦とうちの夫婦でお寿司食べに行こうって誘われたけど、行かない。でもって、私の夫はなんでお寿司を食べに行かないか、その理由は分かっていない。(笑)
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