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馬と人間のコミュニケーションの世界をより良きものにするために
馬との関わり方など、テキサスから真摯に想いをシェアするべく書いて行きます。
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火の手を背に馬運車を牽引したトラックで、北に向かって走り始めて5分くらい発った後、携帯が鳴る。トラックの席は運転席と助手席の普段は2人乗りなのだが、真ん中のひじ立てを上にあげると、きつきつで大人3人座れるスペースがある。そこに3匹の犬たちが各々に坐っている。犬たちを掻き分け携帯に出る。うちの馬たちの削蹄をしてくれているアンディーだった。(酔っ払いのじいちゃんアンディーではなく装蹄師のアンディー)
「ユキコ、どうしてる?」とアンディーはいつもの調子でゆっくりと話す。「え?あ?もう火事のこと知ってるの?」と私。「ああ。で、馬たちは?」。「今、2頭連れてそっちに行くところ。でも2頭はまだ残ってる。」と私は早口で喋る。それに対し、ゆっくりとした口調で「ああ、そう。ヘルプ必要?」と、何事も起こってないような様子で淡々と聞くアンディー。危ないかもしれない中、こっちまで馬運車を出して来て、うちの馬2頭連れてきてとは言い難いなあ・・と一瞬躊躇しているところ、アンディーはそれに気付いたのか、「ラスティーの馬運車借りて行けるけど?」と、謙虚な口調で言ってくれた。人を助ける時にでも、上からではなく下からサポートしようという謙虚さを感じ、アンディーの人間としての高尚さを知る。2重にありがたい。
私は遠慮を振り切って「じゃ、お願い。今すぐ出れる?」と言うと、アンディーは「OK。今からトラックにトレーラーを着けて、すぐに出るよ。」と言ってくれた。電話口で心で通じ合っているスピードで会話が進行したと思った。会話そのものは速攻で用件だけで終わったけど、お互いに必要なことは全て情報交換できていた。多くを語らなくても双方で相手の意図が伝わっていたのは、目的が一つだったからだろう。それは、生きるものの命を守ろうという意志だ。
携帯を切った後、顔の筋肉をコントロールできないと思ったほど、私は顔全体で大きく笑っていた。頭の芯から温かな幸福感が体に染み入り浸透し、体中で幸せだと思った。馬や犬たちを連れても受け入れてくれる友人がいる。そこに行くまで、安全な道に誘導してくれたお隣さんもいる。危険を承知で馬たちを連れ出してくれる知り合いもいる。みんな同じ目線を持っていた。それは自分だけでなく、他の命をもが生きられるよう、そのためには自分にできることで助けようという、人間の美しい心。
人間として生まれて、頭ではなく実際の体験として、こんな素晴らしいことを経験ができるなんて、私はなんてラッキーなのだろう。そのうれしさで体中が包まれていたその時、運転しているトラックの前を見ると、雲の間からサアーっと光が降りてきているのが見えた。単に雲から垣間見えた太陽光だったけど、それを見て涙がとめどもなく流れてきた。
愛されている。みんな愛されている。生きるもの全ては愛されている。本来、この世は愛という喜びで満ちているはずなのかもしれない。喜びの後、私は気を引き締めて新たな決心をした。これほど守られていて愛されているという気持ちに、満たされる幸運があるのなら、それを自分だけのものにして満足していてはいけないんだ、と。
しばらく前のこと、息子がネブラスカに発つ前に、馬たちの干草を農家に買いに行くのを手伝ってもらうため、私は息子と二人でトラックに乗っていた。その農場では注水システムがあり、水が豊富に撒かれている芝生がある。それを約一月に一回刈り取り、スクエアーペールと呼ばれる長方形に草をまとめた干草として売る。私は車を運転しながらそのシステムのことを考えていて、今はテキサスは旱魃だけど、我が家にも井戸があってラッキーだよなあ・・なんて思いつつ、つい前後の脈略を何も説明せずに、息子にポロっと「私たちは本当にラッキーだよね。」と言った。
そう言葉を出してしまった後、息子が一体何の話をしているのかと訝しがると思っていると、彼は「本当にそうだよね・・」とポツっと言ってしばらく沈黙している。数秒置いて、私が「ねえ、Duganは一体なんのことを思ってラッキーだって思ったの?」と聞くと、彼からは思ってもなかった多くの言葉が流れ出てきた。
「僕たちは戦争の心配をしなくていい。食べるものにだって困ってないし、今日生きられるか?危険な目にあうか?など、全く心配しなくていい世界に生きている。でも、毎日、怖い思いをしてい生きている人たちが世界中にはたくさんいるよね。学校に通うのだって、怖い思いをしながら毎日登校している子どもたちもいるんだ。だから僕たちはラッキーなんだけど、幸福かと言えば幸福じゃないんだよ。本当の幸福とは自分一人が満足してお終いなんじゃなくて、生きるもの全てが幸福になってはじめて幸福って言えるんだ。」
彼はそう言いながら涙を流していた。トラックに乗って田舎道を走っていた時に、この子は一体何を考えていたのだろう???親でも分かりません。ただ、その奥に何かの決心があるようには、親だから感じるものがあった。その決心は今芽生えたのではなく、生まれた時に魂と一緒についてきたのかもしれない。息子は現在ネブラスカの工事現場で働いている。来年から大学に行く前に、お金を貯めて世界を周り、最終的には中東やアフリカに足を踏み入れたいとのこと。自分の目で見て体験したいと思っていることがあるのだろう。私と夫は、一年学校に行くのが遅れるよりも、その方がよっぽど彼の人生の学びになると思った。いや、親だけでなく友人、知人、みなが大学にすぐに行くよりも、その方がいいと思ってくれて祝福してくれいる。
で、悟りとは自分一人が洞窟に篭り悟るだけではないと私は考えている。究極の悟りとは、誰しもが神の一部、いや神そのものであると気付くこと。そのために、一人一人できることは違うのだろう。以前、他にも息子に言われたことがありハっとしたことがある。それは「行動できなければ喋ったらいい。喋れなければ考えたらいい。」と。人類に貢献することとは、究極、祈るだけの人がいてもいいということだ。「じゃあ、何も考えないで何もしない人は?」と私がひねくって質問すると、「それだと植物と同じだね。人間なら何もしなくても、少なくても考えることはできるでしょ。」と言っていた。
人はそれぞれやれることが違って当たり前。何をするのか、そのチョイスを持たせてあげるために、私たち親は子どもを教育している。決して人より抜きん出るために子どもを教育しているのではなく、人類全てが神になるために、自らが悟りを開き、その上で一人一人が自分にできることで他に貢献するために、教育している。そう考えて子どもを育てていれば、何があってもぶれることはない。
しかし、今生ではそれは無理と思うかもしれない。そう思うのは時間というのが一直線であると思うから、時間には終わりがあると思うので、今できなければ意味がないと思ってしまうのだろう。でも、今できなくても、今は一歩でも自分のペースで前に進めばいいのだ。
自分は何をしたらいいのだろう?みなが少しでも自分にできることを持ち寄ることができたら、もしかしたら、災害など起こらなくなるかもれない。実際に行動しなくても、喋るだけでもいいし、それさえもできなければ考えるだけでもいい。それだけで世の中が変わっていくかもしれない。外で起こっていることを食い止めようとするよりも、まず先に必要なのは、一人一人の心の在り方が変わること。私はそう信じている。
トラックを運転しながらiPhoneで撮った写真:
続く
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