私が子どもの頃、母がしてくれたことで
今になってすごく感謝していることがあります。
それは・・・
「子どもが家でブラブラしているもんじゃない。外で遊んできなさい。」と
家にいたら、外に出されてたこと。
(なんでえ~?)って思ったことも多々。
「掃除するのに邪魔だから」とか言われたことも。
でも、邪魔しないから外に行きたくない、とかなんとか言っても
無理矢理、外に遊びに行けって、家から追い出されてました。
ご飯になるまで帰れないんですね、家に。
でも、ちょっと大きくなってきたら、今度は「ご飯までには家に帰って来なさい」
と言われるくらい、外での自分の世界が広がってった感じでした。
外にほっぽり出されているワケだから、ポツネンとすることもありました。
でも一人で遊ぶのはつまらないので、自分から友達を誘うようになったり
何時だったら誰が家にいるかなど、鼻が利くようになった。
通りをはさんだ子どもたちには意地悪されるから
いつも遊んでいる子たちと遊ぼうとか。
大きい子たちと缶けりやったら、いつも自分が鬼になるから
お兄ちゃんたちに缶けり誘われても、やらない方がいいとか・・
一人でサバイバルする疑似体験を外にほっぽり出されている時に
かなりしていたんだと思うなあ。
外で遊んで来い、って言われて出されたら、そうねえ
最初は、やっぱり(家にいた方が楽なのに~)って思うかもね。
でも、どうしたら楽しみを見つけられるのか、そんなもん
子どもが自分で見つけりゃいいのよ!って、私は思うんですけどね。
家に帰れない→どうやって何時間も自分でサバイバルするか・・・?
なんていうか、ちょっとした危機感を味わえていいんじゃないかと思うんですけど。
危機感がある中で、自分で選択してやっている
そして何とかやっていけているという達成感
ブランコで新しい遊びを作った時とか
いつもは仲間はずれになってた大きい子達に一緒に遊んでもらえたとか
自転車で遠くまで行けるようになったとか
”親に作ってもらったシチュエーションじゃない”中で何かを達成した時の
満足感というか、(よっしゃ~っ!)感が、今の私の基礎になっていると
そんなことを最近、母が家に滞在してた時に、ふと思い出していました。
もし子どもの頃に、母から「子どもは外で遊ぶもの!」と言われてなければ
その体感はなかったかもなあ。
と言っても、これは私の運命だったワケで
そうじゃない幼少時代を送っている人もいるし
何が正しいということじゃないのね。
ただ、各家庭でのやり方うんぬんではなくて・・
子どもは多くの時間を外で体を使って成長してきたというのは
太古の昔から、人類はそうやって生きてきたって思うの。
でも現代人は、ここ近年急に外に出て体を使わなくなっている・・
人類がこれまでやってきたことを急に止めているワケだから
色々な歪が出てきてもおかしくない・・
なんていうことが言えるかも。
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