最近知り合いになったデイビッドと、先日またまた牧場で出くわしました。私たちは青空の下、馬たちがのんびりと草を食べている横で、脳科学について、宗教について、瞑想体験についてなどなど、お日様の下、爽やかな風に吹かれながら話をするには、ちょっと似つかない深い話に花が咲きました。
彼は昔LSDを使用したことがあるらしく、その時の体験を私に話してくれました。ハッキリ言って最初はドン引き。私は両目を大きく開いてのけぞって、ビックリしている様子を隠しませんでした。でもオープンマインドになろうと気を取り直し、デイビッドの話に聞き入りました。なぜなら、20歳くらいの時に読んで、非常に興味を持ったジョン・C・リリーという、実際に自分自身でLSDを使用し、自らの体験をも通じて脳の研究を行った科学者の本と、彼の話がとても共通していたからです。私は本で読んで知ってはいたけど、実際に体験した人の話を聞いたことはありませんでした。
後からネットで調べる限りでは、デイビッドが言ってた通り、LSDには確かに覚せい剤のような中毒性はないそうです。と言っても風邪薬を飲むのも怖い私には、自分で実験するなどとは考えただけでも恐ろしい。しかし彼の話を聞くうちに、LSDをやってみてもいいかという気になりました・・・というのは冗談冗談。でも彼のLSD体験は瞑想体験と非常に共通していることが分かり、そちらの方向からのディベートを非常に面白く感じました。
私自身の瞑想体験では、自分の思考に囚われないようにし、沸きあがってくる思いや気持ちを消す作業が終わると、音のない無の空間がおでこの辺りから広がり、目が開く感じになります(いわゆる第三の目でしょうか)。それは目を開けて無限の空間が見えているような感覚です。その状態になる時、いつも自分で目を開けてないことが不思議になるほど、本当に見えている感じになります。と同時に頭のてっぺんから、光のシャワーに全身を包まれます。そうなるとどのくらい座っていたのか時間を忘れてしまいます。数年前を皮切りに、瞑想しようと本気で坐る時には、大概この感覚になれますが、でもそれは多分、地球の波動がその頃に変化したため、私のような普通の人間でも、プチ悟り体験への旅に招待されるようになったのだと思っています。
デイビッドは瞑想もするそうですが、彼のLSD体験の話は、私の瞑想体験とほぼ一致していました。ということは、LSDを使用するのと瞑想とは、脳が同じように機能するということでしょうか?もっと科学的な言い方をしたいのですが、すみません。知恵が足りずに説明できません。頑張れば、もうちょっとだけなら見栄えよく書けそうですが、他にもお話ししたいことがあるので省かせてください。
私はデイビッドに問いました。
「じゃあ、修行や瞑想などしなくても、LSDを使用すればいいってこと?アイソレーション・タンクの体験もLSDでまかなえるというっていうこと?」
「私たちが瞑想などで得る感覚は、一体どういう意味があることなの?」
私は瞑想体験で得られる悟りのような状態は、決してそこがゴールなのではないと、以前から思っています。その状態になったからと言って(だからなんなの?)なんです。なのでデイビッドに言いました。
「そのような脳の作用による精神的な活動と、実際に地球という次元において、身体を持って人間として生きている活動を、どう繋げていくか、そのバランスが今の私の課題なんです」
「私にはその領域は、つまり、そのような体験は、ただ単にそっちの世界を垣間見させてもらっているにしか過ぎないって思えるんです」
分からないことだらけですが、私には一つだけ明確に解っていることがあります。それは私たち人間には、解り得ないことばかりだということ。そう。解らないということを解ってるんです。
チル大の中でも紹介していますが、10次元というビデオがあります。4次元くらいまではなんとなく想像できますが、それ以上になりますと、コンセプトは多少なりとも理解できても、それが一体どういうことなのか、自分の体験と照らし合わせて、(ああ、分かる分かる。10次元ってこんな感じだよね~)と思うことはできませんよね?
なかなか立ち上がらない場合はコチラ
瞑想で時空を超えた状態になれるといっても、でもそれは思考であって身体ごと同じ状態にはなれない。それこそ、いつでもどこでも身体も思考も、原子サイズなったり全宇宙サイズになったり、一個だけではない無限にある宇宙の中で、その無限と一体になって、しかも過去も未来も現在も同時に存在して、紐のようなクニュクニュしたエネルギー体になって(超紐理論)、、、ああ、何を言っているのか分からなくなってきました。でもこれで解らないということは解っていただけたと思います。(笑)
しかし人間には解らないことでも、多くの宗教では神とはこういうものであると定義しています。宗教でなくても、人間とはこういうものである、人生とはこいうものである、世界とはこういうものである等々・・・私たちが信じている、こういうものだという定義がこの世にはたくさんあります。そして、多かれ少なかれ私たちは何かの定義を信じています。そしてそして、いったん一つの考えを信じてしまうと、そこから先は自分自身で考え続けなくてもよくなります。そこが私たちが自分で作っている思考の限界であり、自分たちを閉じ込めている壁ではないでしょうか。
神さまがこの宇宙を作ってさ、地球も作って、動物も人間も作ったんだよ~。なるほど~。あ、でも人間は神さまが作ったんじゃなくて、微生物から進化したらしいよ。元は猿だったんだって。なるほど~。なーんていう、かわいいところから始まって、カルト宗教で信じられているクレージーな教義に至るまで、その定義を信じてしまえば、そこから先に考えなくてもいいことがたくさん溢れています。
カルト宗教では脳の機能や人の心理がどう働くか、ものすごく巧妙に研究されていて、それを利用して人を洗脳し、彼らの物の見方を植え付けるところもあるようです。私は昨日、私がこのブログとBBSで人を洗脳していると、ある人に言われましたが、こんなものを読むくらいでは、普通の人は洗脳されないでしょう。洗脳とは、他に手段がないと思い込まされるころまで追い詰められて、これまでの人格を一切否定された上で、洗脳する側の益となる新しい考えを吹き込まれることと理解しています。もし万が一、私のブログやBBSで洗脳されてしまう人がいたとしたら、その人はきっとテレビを観るだけで、CMに出てくる商品をなんでも買ってしまう人だと思います。でも私が書いていることくらいで、普通の人を洗脳できるワケがない。
まあ、でも58歩ぐらい譲歩して、仮に私が文章だけで人を洗脳できたとします。でも私という人間は、一体どんな教義を洗脳しているのか?自分にも分かりません。敢えて言うとしたら、洗脳されないようになったらいいよって洗脳しているのかなあ・・・?
私が多面的に考える教育が必要だと考えるのは、“自分という存在”の枠を広げることができるからです。親が愛情を持って、多面的に考える教育を与えてあげることによって、子どもの可能性が広がると考えています。そして子どもたちの思考の空間が広がれば、人間としてこの社会に生まれてきた彼らが、人々のためにできる活動も、広がるのではないでしょうか。その一人一人の可能性を伸ばしてあげるために、重要な役目を担っているのは、私たち母親であり、「揺りかごを揺らす手が世界を握っている」と、何年も前からアホみたいに同じことを言い続けています。
私は自分が考えていることに人を洗脳したいとは思っていませんが、多くの人が共鳴してくれたらうれしいとは思います。共鳴してくれる多くの人たちが繫がれば、一人では成しえなかったことができると思うからです。でもそれは、私がそうしたいからという、個人の要求を満たすものではありません。人々の単体のエネルギーが複数のシネジーになれば、どちらにしてもムーブメントは生物のように、自ら動き出し自然に変化していくものと思っています。昨日、私は人を洗脳していると言われた同じ人から、「善だと思ってやっているから性質が悪い」と言われましたが、もし私が一人の力で動かそうと思っても、どちらにしても動くものではないのです。なので心配しているような、善のように見せかけた悪が、もしあったとしても、どちらにしても広がりませんので、どうぞご安心ください。
私は何年も前から、このように単純に全く同じことしか考えていないので、今の私も数年前の私も、自分では考えが変わったとはちっとも思っていないのでした。少なく見積もってもあと数年は変わらないと思います。でも人の見方は変わります。だとしても、私のビジョンは変わりません。
長くなりましたので、また今度。

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