ジムが銃で人を撃って殺害したことがあるという告白を聞いていた時、私のふくらはぎはジンジンしていました。なぜなら、彼らが所有する10匹くらいいる犬の一匹に、足を噛まれた後だったからです。犬に噛まれるのは生まれて初めての経験でした。
ちなみに、あれから数日も経った今でも、噛まれた痕を触るとズキズキ傷みます。今もこれを書きながら、本当にまだ痛いか押してみました。いたたた だから触るなっつーの。
しかし、惨事はこれでけでは収まりませんでした。次の日、私は22歳のシュリーと一緒に、馬に乗って牧場内を廻ってみました。私たちは大きな池の周りを一周し、長い一本道を駆けて、広い野原では牛たちの間を通り過ぎ、そして、牧場に放牧されている他の馬たちの横で、一緒に草を食べさせました。
まるで全身の毛穴から染み込んでくるように、楽しく満たされた時間。私たちは特におしゃべりもせずに、今この時を満喫していました。車の音など一切聞こえない牧場でのライドは、現実の世界からワープされたようなひと時でした。
ライドを終えた後、その辺りで見渡す限りでは、一番頑丈そうに見えたフェンスに馬たちを繋ぎ、私たちは馬たちの鞍を外した後、彼らに水浴びをさせました。その時ルナが少し興奮し何かに怯えだしました。私は彼女が怖がっている様子にリアクトしないよう、氣を抜いてルナを落ち着かせようとしました。が、馬を調教した経験のないシュリーは、人間に接するように、言葉でルナの興奮を制しようと、「ルナ、落ち着いて、大丈夫だから」と言いながら、ルナに向かって手を上げて近づきました。
私は馬たちに接する時に、プラスとマイナスの氣を使い分けるようにしています。どういうことかと言いますと、例えば馬が興奮しているプラスのエネルギーの時には、自分の氣をマイナスにします。呼吸を口からゆっくり吐き、身体から氣を放たないようにするのです。
子どもに接する時も同じです。子どもが興奮して騒いでいる時に、こちらが「静かにしなさーい!」と氣を入れまくっても、子どもに注目してもらえません。でも静かに話ししだすと、怒鳴るよりも子どもの注目を集めることができます。逆の場合は、例えば子どもが元気のない時には、よっし頑張るぞ!と、エネルギーを注入するというように、いつもエネルギーを陰陽で使い分けます。
相手が興奮している時に、それにリアクトせずに平静を保つのは、練習すると意外と簡単にできるようになります。面白いことに、人によってプラスのエネルギーを出すのが得意な人と、逆にマイナスの静のエネルギーで引き寄せることが得意な人がいるみたいです。
しかし、そのようなエネルギーの使い方を訓練していなかったシュリーは、ルナのリアクションにリアクトしてしまい、それによってルナの恐怖心がマックスに達してしまいました。不幸なことに、繫がれていたフェンスは、ルナのブンっという馬力一発で、地面から私の頭上スレスレに宙を飛び(後からシュリーがそう言っていました)、ルナはフェンスを引きずりながら、全力疾走を始めてしまいました。
フェンスは金属でできていて、横の長さが5メートル以上ありまます。それを引きずって走っているルナには、自分の後ろから得体の知れないモンスターか、ガラガラ音を立て自分を捕まえようとしている動物が、走って追いかけているように思ったのでしょう。彼女はロープで繫がれたフェンスから逃げ惑っていましたが、走っても走っても、得体の知れないモンスターは彼女のすぐ後方から追いかけてきます。
そんな折、とても奇異なことが起こりました。遠くの方で草を食べていた馬たちが、一斉に集まってきて集団となり、ルナの前後をルナと一緒に走り出したのです。あの光景は圧巻でした。しかももし、あの馬たちがそのような行動を取らなかったら、ルナは一体どれだけ走り続けてしまったことでしょう。他の馬たちが登場してくれた数秒後、ルナの疾走は止まりました。と同時に、他の馬たちはまた下を向いて草を食べ始めていました。
私はルナを興奮させないよう、走っていきたい気持ちを抑制しながら、落ち着くように自分に言い聞かせ、深く呼吸をしながらゆっくり彼女に近づき、何事もなかったような動作で、ロープをフェンスから外しました。その間も、その後もしばらく、ルナは声になるほど大きく早く呼吸を続け、震えたっていました。もし彼女が人間だったら、興奮して泣きじゃくっていた状態です。
後ろ足を見ると血が流れています。しかし、なんとか歩けるようでしたので、ルナとサニーの居場所のフェンスに囲まれた原っぱに連れて行き、私はすぐに動物病院に電話をして、獣医さんに来てもらうよう手配しました。事故から数日経った今、ルナは動物病院に入院中です。足は靭帯を切るまでには至らなく、しばらくすれば何とか快復するということです。
しかし、立て続けに起こる事故で、私は傍と考えさせられることがありました。私は間違った判断をして、危ない人がいる牧場に引越してしまった。そこで犬に足を噛まれ、そして大事な馬を怪我させてしまった。
もう何年も、このような問題という問題が身に降りかかったことはなく、どちらかと言うと、近くで火事が起こっても、自分には火の粉さえ降ってこない状態でした。なので、いつもなにかとアクシデントが起こり、人生山あり谷ありになっている友人トレーシーの話を聞くと、彼女はなんだか、いつも修行をさせられているのねえ・・と思ったり、そして何かと人生に問題を抱えている人たちの話を聞くと、なぜ彼らはそのような惨事を自ら引き寄せいるのだろう、と思っていたのでした。
とすると、その法則は自分自身にも全く当てはまることです。私は一体何を学べってことなのか、自分の中で自問自答を始めました。
その日、家に帰ると夫が言いました。「ボクはあそこは止めた方がいいって思っていたんだけど、どうせキミはボクが何を言っても聞かないだろうから、言わないでおいたんだ」と。私は「そうかあ、でも、このことで私が何を学んだらいいのか、今もまだ分かってないのよ」と言うと、彼は「夫の言うことを聞くように!という学びじゃない?」と、ニコニコしながら言っています。私はすかさず「That’s not it! それは違う」と一言で彼の言葉を却下し、ジムとスーザンと話しをしていた時に、自分で感じていた感覚について彼に話しをしました。
「私ね、ジムの話を聞いていた時にね、自分が怖いとか危ないと思うよりも、もっと強く感じていたのは、ジム自身の恐怖心だったの。彼の魂にまで刻み込まれている恐怖心。そんな気持ちにアクセスしてしまってた。そして彼が癒される道はないのかって、そっちのモードになってたの」と言うと、夫は「そういうことはやめてくれ。まず自分のセーフティーを考えてくれ」と言いました。
この後も夫としばらく有意義な会話をし、私はグランディングして気づかされたことがありました。夫の何気ない一言が、私にハっと気づかせてくれたのです。「僕たちは人間なんだから。聖人じゃないんだから」
自分が聖者だと思っていたということではありません。人間だということは、相手にいくら共鳴しても、すぐにその場で相手の魂を癒してあげることはできない。私には聖人が人を一発で癒してあげられるような、そんな技は持ちえていません。なので、ともすると人に共鳴しすぎてしまった場合、引きずられてしまうだけなのです。しかし、共鳴するだけなら動物だってできる。
でも人間は動物とは大きな違いがあって、それは人は常に選択の連続のうえ生きていて、そして選択の全ての責任は自分にある、ということではないかと思ったのでした。私は自分の馬たちが、草原で他の馬の群れに混じって生活できるということだけにフォーカスし、動物本位でしか物を見ていませんでした。その結果、ラスティーの牧場からスーザンの牧場に引っ越しました。その時には、周りにいる人たちのことなど、私の目にはまっすぐ入ってきていませんでした。
私が間違った選択をしたことで、ジムの話では家族に心配をかけ、自分は犬に噛まれて痛みを伴い、そして守ってあげられるはずのルナに大怪我をさせてしまいました。これは私の選択が間違っていたからです。責任は全部、私にある。
としたら、恐怖の塊で生きているジムは、やはり自分で自分の人生を選択してきた結果、彼の今の人生があり、また未成年を性的虐待していた犯罪者の子を持ち、自分の子どもを事故で亡くし、現在、犯罪者と生活しているスーザンもまた、彼女の人生を自分で選択してきた結果、今の彼女がある。
人助けをしないということではなく、どこまで共鳴しすぎて引きずられてしまうか、また境界線をしっかりと見極め、相手を責任ある大人として考え、どんなに惨めに見える人でも、それはやはり自分で選択して作って来た人生であると、冷たく突き放すのではなく、愛を持ってその人の選択を尊重することの、バランスがとっても難しい。
でも一つハッキリと言えるのは、大人の間違った選択によって、その迷惑を被るのは、私のことで言えば、何の罪もなかったルナであり、そしてスーザンのことで言えば、公立の学校を拒否し、かといって自分で家庭で教育を上手く与えることはできないであろう、彼女の5歳の息子であります。
ちなみに5歳のジョエルは、これまで見たこともないほど、スーパー運動神経のいい子。いつも裸足で牧場を駆けまくっていても、ケガ一つしません。しかし、ジュディーおばさんが言っていましたが、スーザンはこの子もきっと学校には入れないだろう、ということでした。それはスーザンが家庭教育に興味があるからでもなんでもなく、自分自身が教育を受けず、キリスト教原理主義に洗脳されていて、ダーウィンの進化論を教える、学校というものを毛嫌いしているからでした。
(続く・・)

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