スーザンの5歳の息子ジョエルはスーパーキッドです。私はこれまでに、あれほど運動神経の良い子を見たことがありません。彼はいつも地べたを裸足で駆け回っています。どこにトゲのある植物があるか、まるで動物のような目と勘で嗅ぎ分け、それらをすばしっこく避けてケガなどしません。初めてジョエルを見た時、これだけ身体機能が優れているということは、脳の機能がよっぽどいいに違いないと思ったものです。
スーザンの亡くなった娘さんは自閉症だったということで、学校には行ったことがなかったそうです。そしてスーザンは、ジョエルも学校教育は受けさせないつもりでいます。私が住む田舎町では、ホームスクールの子どもたちに多く会います。私が会う子の80%は、公立もしくは私立の学校ではなく、家庭で教育を受けている子どもたちと言っても大げさじゃないほど、かなり多くの子がホームスクールで学んでいます。そしてそのほとんどは、強烈にキリスト教を信仰している人たちです。多くの人たちがホームスクールを選んでいるのは、キリスト教の教えや道徳のない環境で、子どもを育てたくないのです。
カリフォルニア州などは、ホームスクールと言えども、州の規定のカリキュラムがあるらしく、それらをきちんと家庭で教育しているかどうかチェックするために、州にレポートしなければいけない仕組みになっているそうです。しかし、ここテキサス州ではそのような規定はないため、ホームスクールと言いつつ、家庭でなにもスクーリングしてなくても、誰も何も介入できない状態となっています。
ということは極端に言えば、もしスーザンが宗教的な理由から、ジョエルを学校に入学させないと判断し、そしてホームスクールと言いながら、実は何も教えなかったとしても、モニターしようがないということです。私はそこを憂いしました。
私がスーザンの牧場を去る日、ジョエルがToy Storyの絵本を持ってきました。そして、Tを指して、これは自分のJoelという名のJだと言っています。彼はアルファベットを知らなかったのです。5歳なのだからアルファベットを知っているべきとは思っていません。しかし、彼がその本を読みたい、どんな文字や言葉が書かれているか知りたいという気持ちを私にぶつけてきた時、私は彼の将来を考えて悲しい気持ちになりました。そして、彼にしてあげられる最後のこととして、牧場を去る前にジョエルに言いました。
「すごい秘密を教えてあげるよ。もしね、キミが1年間でもいいから、お母さんに読み書きを教えてもらったとしたらね、この本の表紙だけじゃなくて、ほら、ペラペラって中を見てごらん。そうそう、ここに書いてあることが、ぜーんぶ、誰に聞かなくても、自分で分かるようになるんだよ。だから、毎日、お母さんに教えてって頼んでごらん」と言いました。その時ジョエルの目は、キラキラと好奇心に溢れていました。
話は数ヶ月前に飛びます。
私たちが住む家の周りには、広い牧場や原っぱがたくさんあります。一応はハイウェイと名のつく道路でも、両脇は牧場の草原で草を食べている牛たちをたくさん見かけます。それらの牛を見て、ある日、息子がこんなことを言いました。
「野性の牛っていないよね。全ての牛は生まれた時から、誰かの所有物だよね」、「牛はさ、餌を与えられて何も考えずに、今いる場所でただ生きているだけだけど、でもさ、そうやって何も考えないで、牛のように生きている人間もたくさんいる。ボクはそんな風には絶対になりたくない」
それに対し私はこう言いました。
「人間も生まれた時からどこかの国に自動的に属してない?アマゾンのジャングルとかは別として、人間も野生の人間っていないんだね」
そう言った後、私は耳たぶに番号を入れられている牛たちと人間を結び付けて、どんよりとした気分になりました。そして【1984】という昔観た映画を思い出しました。
コレ怖いよ:
映画「1984」
私たち人間は、一人が学んだことを別な人に伝えることができる、言語というコミュニケーション・ツールを持っています。それによって、多くのことを学ぶことができます。人間には一つのトピックから派生させて、考えを広げていく能力もあります。動物とは違います。ジョエルは人間として生きていくために、自分の本能から言葉を学びたいと思った、と私は思いました。人々に言語を与えず、表現する場を与えなかったら・・・1984のようになります。
映画の世界だけではなく、現実的に動物のように考えなくてよい状態にさせられてしまうトリックが、社会には隠れています。そして洗脳された親の手によって、子どもも自動的に洗脳されていく、という連鎖があります。スーザンのようにキリスト教原理主義に洗脳されている場合、彼女は聖書のみを信じていますので、もしかしたら別な見方があるのではないか?と、自分で考えなくてもよくなってしまう。※聖書を信じてはいけないということではありません
しかしスーザンのリアリティーは、必ずしも私のリアリティーではありません。私のリアリティーはあなたのリアリティーとも違います。人は同じ時間や世界を共有しているのに、みな違った層を見ていて、同じものを見ていながら違うことが見えている。
スーザンの世界は、キリスト教原理主義から埋め込まれたリアリティーで、その部分では同じ教義に洗脳されている人達は、共通するリアリティーの中で生きています。でもそれは、自分で考えたリアリティーではなく、人から植え込まれたリアリティーです。それによれば、ダーウィンの進化論はちゃんちゃらおかしい神の教えに逆らった知識です。そして、人を殺そうが何をしようが、キリスト教徒になれば死後には天国に行くことができます。なのにキリスト教徒になった彼女のボーイフレンドのジムは、なにかに怯えて拳銃を持ち歩いている・・・
ところで鳩山さんの奥さまの幸さんは、実はサイエントロジーの信者ではないかと言われているようですが、鳩山さんの奥さまがちょっとプッツンなのは、個人的に勝手にプッツンしているワケではなく、人が作った教義を教え込まれてそうなっていると思うと、なんとなく逆に安心したりします・・・
サイエントロジー、ジヌーで検索GO
様々な宗教では、創立者の頭の中にある、リアリティーだと思われているイリュージョンを、集団に信じさせているようですが、今の日本を傍から見ている私などは、(もしかしたら宗教の方がまだマシかも)と思えるのでありました。なぜなら善良な宗教では、少なくても隣人に優しくしなさいとか、徳を積みなさいとか、十戒のように人として生きる掟を教えてくれるからです。
十戒
自分で考えなくてもよい世界に身をおくということは、ある意味楽かもしれません。考えなくても草を与えてくれる。考えなくても答えをくれる。自分のエネルギーを使って、どう生きるべきか考える必要がない。でも、それだと牛になってしまいます。
とは言え、スーザンが信じている宗教が悪いということではありません。私が言いたいのは、自分自身で考えずに誰か別な他者が考えた理念を、一糸の疑いもなく信じ込むことが危険だと思えてならないのです。そしてテキサスという別なところに住んで、愛する祖国日本を遠くから眺めると、そのような状態が集団で起こっているように見えてならないのです。
教育とは考えないことを教えることではなく
考えることを教えるものではないでしょうか。
しかし
これまでの日本の教育は、考えないことを教えてきました。
ただ今ちょっと、思っていることを全部言ってしまいたいモードになっておりますので、私の言うことにあーだこーだ思う人もいらっしゃると思います。えっと、あーだこーだというのは、「努力している先生方もたくさんいらっしゃいますよー」とか、「素晴らしい家庭教育をしているお母さんたちもたくさんいらっしゃいますしー」とか、そんなことです。
でも、うるさい。そんなこたあ、分かっている。
ああ、私は一体、誰と会話しているのか?という感じですが、結構、特定の人が頭に浮かんだりしてて、まだ起こってないことですが、勝手に想像して話を進めておりますです。(笑)
ポイントはそんなことではなくて、社会全体が病的になってきているというのは、えっと、ランディー由紀子が病的なんじゃなくて、ま、そんな時もたまにあるのですが・・ とにかくですね!傍から見る日本は、社会全体が病的に見えるワケなのです。ちなみにCNNでは、鳩山代表の奥さんは大丈夫か?みたいな報道してました。
その社会を眺めて(そこそこにOKじゃないですかー)とか、(まあ、このくらいでいいでしょ)とか、(好きなようにやったらいいじゃないですか)というのは、この間カウンセラーの竜田ちゃんに教わった4文字単語を早速、使わせていただきますが、病態水準の針子が危険信号を指す前までなら、傍観・観察もありかと思えるのですが、針が赤いところをさすようになってから、結構、時間も絶ちますし、しかもそのレベルが強度になってきているように感じておりますので、私はこんな風に思っていることを、たくさんの文字にすることにしたのでありました。
殺人事件は日本では数は少ないのに、親が子を殺したとか、子が親を殺したとか、通り魔殺人とか、兄弟を殺したとか、そういう殺人の%が高いと思うのは私だけではないでしょう。他にも日本の社会はどうなっちゃったんだろう?と思えることってたくさんあると思います。虹色教室のなおみさんが、頭にお花が咲いているような人たち、と書いてることがありましたが、外から日本を眺めて見ると、私の頭の上にはヒヨコとお星様がでてきてしまいます。
ぬるま湯に浸かっているカエルは、だんだんとお湯が熱くなっても沸騰するまで気づかずに死んでしまいます。という話は、ゴアさんがさんざん言ってくれたので、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。が、地球温暖化の話ではなくて、日本の危機は(考えない、行動しない)状態に陥っているということ。これはやばいですよ。
「あなたの経験と感覚だけで、日本人が考えなくなったとか言わないでっ!」と、また私の空想上のどなたかが、頭の中でおしゃべりしていますので、厚生省とか文部省での調査の結果、児童のゲーム人口は増えているらしいよ、とたまに尤もな事を言ってみます。
2008年のニュースですが、「任天堂のソフトウェアを開発しているにもかかわらず、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の監修をした東北大学の川島隆太教授は4人の息子が平日にテレビゲームをするのを禁止しました。ゲームを許したのは週末にわずか1時間。彼らが規則を破ったとき、一度ディスクを破壊しました」とあります。
ゲームの話はたとえです。考えなくても分かるようなことだと、私は思っているのですが、なぜ、子どもを塾に行かせ教育しながら、ゲームを与えるのだ?なぜ、考えなくなってしまう、外から与えられるだけのゲームを多大な時間、子どもに与えるのだ?ビデオもテレビも一緒。
みんながそうだからとか、子どもが言うこと聞かないからとか、いろいろな言葉が聞けそうですが、そこがぬるま湯に浸かっているカエルなのです。危険が察知できていない。そして、考えない人口を増やすことに、多くの親たちが危機感を持たずに、協力している。しかもお金を払って!
あ、いや、考えている人もたくさんいると思います。ただ、大半の人たちが多くの時間を費やして考えているいること、その事自体が問題なんです。
それは
いかに人より得をするか
いかに人より抜きん出るか
いかに隣の牛よりも草をたくさんもらうか
牛と混合させて、わざと人をむかつかせるように煽っております。「怒ったぞーっ」と思ってもらう方が(え?そうなの?知らなかった。なんなのそれ?関心なーい。私のことじゃないも~ん)と思われるよりもマシです。
さて、私は冒頭で、わざと人の競争心を煽る書き方をしました。ジョエルのことを読んで、自分の子どもの身体機能を伸ばさなきゃと思った人もいるかもしれませんし、または逆に、うちの子には無い能力だわ。そういう凄い子がいるって聞くと、自分には無いものを見せられるようで結構いやかも、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。または焦りを感じるとか。
しかし、なんで競争する意識が生まれるのだろう?
自分や子どもを一体なにと比べているのだろう?
もちろん中には、「私は自分自身と子どもを見つめ、子どもの心の動きを観察し、柔軟に子どもの興味や性格にそって教育しています。ですから、人の子育てと比べたり、競争に勝つ子に育てようとは全く思っていません。私が愛しているのは、親の言う通りにする子どもではなく、私の目の前にいるそのままの姿の一人の人間です。」と答えられるお母さんもいることと思います。
でも、多くの人たちは勝つために、子どもを教育していないか?人より上を行くために、子どもを教育していないか?子どもは喜んで勉強していますから、これは子どものためです、ということもあるかもしれません。じゃあ聞くけど
「明日から、学校制度ではテストが一切排除されることになりました」ってなっても、それでも子どもが好きだからって、外で遊ばせる代わりに、家でドリルをさせるかい?
キミたちが量産しているのは、考えられない子どもたちだ。それは親が商業主義に洗脳されていて、子どもの頭を良くさせないと生きていけなくなるという、恐怖を抱かされているからだ。でもそういう教育では、考える子どもは育たない。宗教よりも性質が悪いというのは、商業主義ではいかに得するかが最も大切なことだから、そこには隣人と助け合うとか、分け与えるとか、調和するとか、そういう理念はなく、ひたすら人より多く得ることが目標となっているのだ。
明日から学校もお金もなくなるんだよ
となった時でも、子育てや子どもの教育に対する姿勢が変わらない
そんな教育を目指してもらいたいものです。
ゲームについて過去に書いたこと:
ゲームやテレビの代わりに読み聞かせ!
ゲームによって潜在意識が変えられる?
子供の態度はゲームが原因?
子供へのゲームの影響(研究結果 X 親の直感)

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