小学生の頃、私は“面白ろ危険な遊び”を考えつきました。そしてそれを馬跳びをパロって「豚跳び」と名づけました。馬跳びにはちょびっとだけルールがありますよね。ところが豚跳びのルールは、ドンドン上に人が跳び乗っていくだけ。そして下にいる人は、「ぐるじいぃぃぃ・・・」と言いながらでも、とにかくその苦しさを耐える、という以外にはルールがありません。(えっ、そんだけ?)と思われたかもしれませんが、これがまたメチャ面白ろかったんです。私たち子どもたちは、休み時間に校庭で豚跳びをぎゃはぎゃは笑い転げながらやっていました。
しばらくすると豚跳びが学校中で流行りだし、校庭にはあちこちで団子になっている、子どもの山がたくさん見られるようになりました。今でもその光景をハッキリと覚えていますが、結構、異様な光景でした。それを見た先生たちは、職員会議で決めたのでしょう。校庭が豚跳びをしている子どもたちの山だらけになったある日、校内放送で先生から「我々日本国民期待背負諸君。即刻、豚跳終了必須」とアナウンスされ、私たちはまた鉄の独房に連れ戻らされたのでした。
さて私は今日、そんな子ども時代を思い出すような、あるアイデアを思いつきました。私は友人のトリシャと我が家でランチをしていた時、窓辺に坐っていたのですが、「閃いたことがある!今、私の頭の上で電気が光った!」と言うと、トリシャは「ホントに頭の上で電気が光っているわよ」と言いました。雷が鳴って落雷の光がピカピカと頭の後ろに落ちていたのです。(笑)
トリシャは最近参加したランニングのイベントの話をしていました。そのランニングのグループは世界中にあるそうです。「その変な走る団体って、一体、走って何をしてるの?」と私は聞きました。走るだけのイベントが何故に、そんなに面白いのか理解できなかったからです。するとトリシャは言いました。「ビールを飲むために走るのよ」、「本当にみんなビールを飲むために走るの。完走できたらビール飲む。完走できなくてもそれを労ってビールを飲む。でもね、私はその団体で走るようになったら、ビールを飲まなくなったのよ。まあ、その団体はつまりは、ヘルシーに走りましょうというコンセプトでやっているんだけど、何かで人を釣らないと、人は走ろうという動機を持てない。だからビールで釣って走らせるのよ」ということでした。
彼女の話を聞いている時、私の思考は完全に宙を飛んで、どこかに行っていました。そういう時でも人の目は見ていますが、人の目を見ながら瞬きもせずに焦点が合ってない状態です。私はその時、ビジュアルなイメージが映画のように出てきて、もしそれを(親子でやったらどうなのか?)という想像の世界に入り込んでいました。
頭の中での空想映像では、両脇に木が生い茂る高尾山のような山道を走りながら、ポイントポイントに子どもがそのために走りたいと思えるものを置きます。例えばですがポイント1からポイント2まで走れた子は、任天堂の最新のゲームをやっていいとします。そしてポイント2からポイント3まで走れた子にはビデオを見せてあげる。しかし段々と距離を伸ばしていって、ポイントごとに与えるご褒美が変わっていきます。最初はゲームで始まるけど、ビデオ → ケーキ → 飴 → ジュース → 麦茶 → 冷たいお水 → みんなから激励のハグ → ゴールには拍手で迎えてもらえる・・・なんていう形。シンプルなことでも感激を味わうことができる、そしてそれを頭で教わるのではなく、自分の身体を使って体感する・・・そんな親子イベントがあったら面白いかも!と、想像が勝手に膨らんで、もうすでにそのイベントが全国に広まっている、という妄想にまで走っております。
トリシャはビールを飲むのを止めなさいと人に言われても、きっとビールを止めなかったでしょう。しかし彼女は不順な動機で走り始めたものの、走ることが気持ちよくなって、もっと走りたいと思うようになり、それにはビールを止めて健康な身体を取り戻さなくてはいけないと思ったそうです。
私は子どもの外遊びが減っていることを憂いしていますが、でもビデオやゲームを止めさせて、外で遊ぶようにさせなさいと言っても、人はなかなか行動しないと思っています。かと言って、ゲームの影響は危機や危険であることを脅してやめさせるというアプローチを選択するのは、(危ない感じがする)というだけでは、もちろん人を納得させられないでしょう。しかも、それに対する研究結果は賛否両論あるため、ゲームをしていた結果、事実としてこういう症状が出ているという、ハッキリとした事例が数多くでてこない限り、論理的にディベートしていくという方向性だけでは、訴えが弱すぎると思っていました。そんなもん待ってたら、子どもが大きくなってしまうしねェ。
モデルケースとしてタバコを例に挙げてみます。タバコは身体に害があると自分で知っていて、自ら吸わなかった人たちもいる中、昔は多くの人がタバコを吸っていました。まあ、日本はタバコを吸っている人が今でも多いと思いますが・・。それで、色々な医療研究や運動が起こり、人々にタバコの害を伝えるムーブメントが、様々な角度から起こりました。今ではアメリカではご存知の通り、公共の場所では禁煙ですし、それに対する法律もできています。しかもタバコにかけられる税金が高くなり、今では1箱6ドルとか7ドルするんですか?タバコ買わないのでよく知りませんが、この間友人がタバコを買っていた時に、値段を聞いてビックリしました。ビックリしたことだけは覚えています。
このようなモデルケースをスタディーすることは、草の根運動でゲームやビデオやテレビなどの、”過度のメディアの使用”を減らすことに役に立つと思います。国民の寿命を引き伸ばしヘルシーに生きるために、他にも食品や運動や医療など、さまざまな分野からのアプローチが考えられますが、でもタバコを吸う人口を少なくするというのは、実現したら効果が倍増するアプローチとして、優先順位としては高い位置にあったのではないかと思うのです。
子どもたちが今、身体を使って遊ばなくなったことや、自然と触れ合わなくなったことで、これからもっと、様々な弊害が社会問題として浮上してくると想像します。それに対し何をするべきか考えた時に、まずは外遊びの時間を食い潰しているであろうゲームや、親とコミュニケーションをする代わりに見せっぱなしにしているビデオ、または画面を三文キックしたくなるほど腹ただしい馬鹿げたテレビ番組を、適度ではないほど子どもに無防備に与えている親の意識が変わることが、この問題を解決させるための優先順位として、上の方に位置すると思っているのです。
さて、提案させていただいたイベントのアイデアは、あくまでもたたき台です。これをみんなでBBSにてリファインしていきませんか?すびばせん。私はおばけのQ太郎に出てくるアメリカみたいに、わざと英語を使っているのではないのですが、日本語を思い出せないのでカタカナがでてしまいます。でも、がまんしてちょ。今、とにかく思っていることを忘れちまわない前に、ダダ~っと書いちゃわないと、別のことをしだしたら、考えていたことを全部忘れてしまうので・・・
なんていう、私の脳の構造の個人情報などどうでもいいことです。が、他にも個人情報でお伝えしたいことがございます。時々BBSにコメントされている白玉禅哉さんについてです。彼/彼女はBBSでこのようなお話をしました。
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観察することで身につく能力は、白か黒か、昼か夜か、夏か冬かに気づくだけではなく
子供がしゃくりあげるように泣いていれば、背中をさすってなだめてあげる。
子供がはめを外せば、制して落ち着かせる....など
対極のものの間で、常に揺れ動く微妙なバランス感覚を得ることだと考えます。
画一的な方法論を子育てに当てはめようとしても無理が生じるのは
バランスを保つ状態は常に揺れ動いているからではないでしょうか。
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ゲームについての討議は、白か黒か、正しいか間違っているか、様々な意見が飛び交うことと思いますし、また研究結果でも(結構いいんじゃないの~)Vs(こんな害毒はありえん!)といった、両極端な見解に分かれることも想像できます。しかし、子育てに於いて親が判断しなければいけないことは、正しい、もしくは間違っているの両極端のどちらかではなく、親が感性や直感を使って、対極の間を子どもや、状況や環境などに合わせて、自分自身で見極めていくものではないでしょうか?
情報はそのために必要なものであって、情報に振り回されるのではなく、オープンマインドになって様々な情報を入手をした後は、手元にある情報を自分自身の考えによって、把握し査定し判断する。クリティカル・シンキングする!でもそれだけじゃなく、プラス感性で読み取る力、そしてそれ以上に第6感のような直感が、子どもを守るために非常に大きな役割を持っていると私は考えています。左脳の働きで理解できるような、右に2進んで、左に1戻り、今度は右にまっすぐ3進んで・・という風に物事を割り出していくのではなく、一目見ただけで感じる直感が研ぎ澄まされてますと、物事を正確に早く判断できるようになると思うのです。
親である自分自身だけでなく、子どもにもそのような能力や、自分で考えて正しい選択を導く力が備わって欲しくないですか?そのためにできることは、親が毎日の生活の中で、短絡的に物事を学ばせる作業ではなく、一つのシンプルなことから様々な学びに派生させ、脳をネットワークさせていく教育です。チル大のみなさんは、一枚の葉っぱからの学びを是非、思い出してください。
さて、白玉禅哉さんですが、この人はチル大生ではないモグリです。チル大を受講したことはないのです。なぜならチル大を創った人だからです。でもチル大の内容を創った人はこの世に一人しかいないのです。
でへ。
私は2つのことを試してみようと思って、白玉禅哉という名前で別人になってBBSにコメントしました。ちなみに、今のところは白玉禅哉しか現れていませんが、他にも別な人格をたくさん持っていますので、私には気をつけてください。(笑)で・・・1つは自分が誰だということを名乗らずに語った場合、書き込みする時にどういう気持ちになるのか?ということを試したかった。もう1つはマミ~というすでに人に知ってもらっている人格で語らない場合、同じことを別な人が、別な雰囲気の言葉で伝えた時にどうなるのか?これら二つの点に興味がありました。1では試してみて分かったことがありました。これはやっぱり自分の名前を語らずにハンドルネームで話をすると、結構、好き勝手なことが言えてしまう。それも自分の言葉に責任を持たずに言えるということが、体験してみて分かりました。と言っても、白玉禅哉はもちろん自制していましたよ。
このことで今後BBSでは、本気のディスカッションをしていきたいと思っていますので、ハンドルネームではなく参加されるみなさんの、苗字、もしくは下のお名前で書いていただきたいとお願いいたします。もし田中さんという方がいらしたとして、でも”田中”だけで日本全国から私のBBSに書き込みしている田中さんを探し出して、悪いことをしようというほど、田中さんに興味を持つ人はきっと出てこないと思います。それでも名前を語るのは怖いという方は、もしかしたらジムが防弾チョッキを買う心理と同じかもしれません。絶対に誰が見ても分かるような、非常に珍しい苗字だったら別ですが。ちなみに私の父方の苗字がそうです。その場合は下の名前でよろしくねん。
白玉禅哉になった別な理由では、私はマミ~という姿を消してみたかったのですが、人が白玉禅哉の話に耳を傾けてくれたかどうかは、知りようがありません。(変な人がいるなあ)と思われたかもしれません。でも、まあ、どちらにしましても、何にしても誰が言っているのかが重要ではなく、何を言っているかが問題だと思うのです。どうぞ、今後BBSでやり取りされている内容をご判断されるに当たり、誰が言っているのかではなく、何を言っているのかのみにフォーカスされてください。
それではBBSでお会いしましょう!

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P.S.
書いていただいたコメントが一体どこにいってしまったのか、ぜんぜん分かりません。
でも、管理ページの方では読ませていただくことができました。
コメントは、是非、BBSを怖がらずに、お気軽にBBSにお書きください。
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