
しかも、自分のことだけでなく、自分の子どもの将来についても、親は自分たちが今生きている環境を枠として、(この子の将来はこうなるのではないか)と想像したり・・(サラリーマンの息子だから)とか、(よそのお家みたいに教育にかけるお金はないから)とか、または(自分たちには分相応)という気持ちが前提にあって、その(分相応)から逃れるために、一生懸命勉強させようとしたり。どちらにしましても今いる現実から、希望を持ったり夢を持つことさえ、自分自身で設けた枠の外に出ることは難しいですよね。
希望や夢を手に入れるには、まずは“想う”ことから始まるます。
でも、この第一ステップである、“想う”ことからつまずいてしまっては
前に進めなくなっちゃうじゃないのよ~~~。
(※このことは個人だけでなく、地球や人類にも大きく影響するということを、そのうち大風呂敷を広げて書こうと思っています。が、今日のところはまず個人のお話)
しかし、もし最初からつまづいてしまう傾向が子どもへと継承されたら?
自分の子どもには将来、大きく羽ばたいて欲しいと願っていながら、毎日の生活の中で親の態度から親の言葉から、“想う”ことに制約が設けられしまったり、夢を描くことに枠が設けられていたら、将来やはり、自由な発想で夢を見ることができない人間になってしまうかもしれません。

学力は全米トップ0.1% 秘訣は幼児期の教育というメルマガを配信していましたが、数年前から私は全く同じ気持ちを持ち続けています。それ故に、では何をしたらいいのかという、テクニックの部分にはあまり触れていません。マインドさえ理解されれば、自然と手と足が動くようになると思っているのです。手足の部分というのはテクニックです。しかし、手と足をどう動かしたらいいのかという、テクニックの部分をいくらお伝えしても、コアとなるマインドが理解されなければ、人は自分で考えて、臨機応変に手と足を動かすことはできないと思うのです。
話は変わりますが、10年来、家族ぐるみで親戚のようにお付き合いしている、マータという私たちの友人は、イギリスの名門大学で博士号を取り(毎朝、スティーブン・ホーキンズ博士と校内ですれ違ってたそうです)、今はアメリカの科学研究で政府がどの研究に助成金を出すか、審査をする重要なポジションについています。若い頃の写真を見るとかなりの美人で、背が高くグラマーで赤毛の魅力的な人です。数ヶ国語の言語を話し、料理はプロ並みに上手。裁縫はソファーのカバーを自分で作れてしまうほどの腕前。植物のことも詳しく、お庭はとても綺麗になっていて、大工仕事も自分でやってしまいます。私はマータのことをよく冗談で、マーサ・スチュワートではなく、マータ・スチュワートと呼んでいます。また彼女は、ヒューストンの文化人に友達が多く、彼女の家のパーティーに行くと、科学者だけでなく、ラジオのホストとか、ライターとか、音楽家とかがよく集まっています。明るくて話題が豊富で、誰とでも仲良くなれる人なのです。しかも病気は一切しないというほど、免疫力の強い人。

8年くらい前のマータと子どもたちの写真 犬の後ろにいるのはうちの子です
これだけ聞くとまるでスーパーウーマンのようですよね。そう、第三者から見たら非の打ち所がないほど、多くのことに優れている人です。しかし、彼女は自分の人生を自信を持ってコントロールしていると思えないそうです。私から見たら彼女なら自分がしたいことは何でも可能な、能力も環境も揃っている人にしか見えません。にも関わらず、彼女は夢を見ることができない。つまり、自分がやりたいことや夢を、自分の力で手に入れることができると、信じることができないのです。この間、彼女とそんな話をしていた時、なぜそうなのか、彼女の奥深くにある心理は何なのか聞いてみました。するとマータは自分のお母さんの話をはじめました。
マータは小さい頃からとても優秀で、飛び級を2回しています。そして留年もせずに大学院を出て、博士号を取った人でありながら、彼女は子どもの頃から、お母さんから常に、何をやっても十分ではない、という気持ちを持たされていたそうです。お母さんは完璧主義の人で、マータが裁縫や料理の手伝いをしても、ほんの少しでも自分の思った通りでなければ、小言を言われたそうです。そしてマータが言うには、それが当たり前の生活だと思って育ったそうです。
そして彼女は、後に離婚することとなった、高名なお医者さんと結婚します。元ご主人はユダヤ系の人でやはりとても優秀。背が高くハンサムで、ロックンロール・ドクターと呼ばれるプロのミュージシャンでもあります。しかし、元ご主人にとってマータは完璧な奥さんではなかったようです。彼女は自分のお母さんとお父さんと同じように、自分を認めてくれない人と結婚してしまったのです。
私は子どもは肯定されて育つと、愛されているという自覚が自信に繫がっていくと思っています。反面、否定されて育つと、どんなに優秀になっても、心から自分に自信を持つことができません。では子どもを肯定しながら育てるにはどうしたらいいのでしょう。私が思うには、それは他者と比べず、親のエゴで子どもの良し悪しを常に判断せず、陰も陽も子どもの素地そのままを全てひっくるめて愛しいと感じ、それを毎日の生活の中で表現してあげる・・・“努力”です。あくまでも“努力”です。なぜなら、言葉で言うのは簡単ですが、これを毎日の生活で実践するのは、ハッキリ言って誰にとっても難しいことだと思うのです。親のエゴなく子どもを常にそのままの姿で認めてあげるなんて、そんな聖母のような親になんて、なかなかなれるものではないでしょう。中にはそういう人もいるかもしれませんが、私自身はいつも心の中で闘っています。
でも、そのままの姿で丸ごと愛してあげることができたら?その気持ちを持てたら、子どもが存在してくれているだけで、ありがたいことだと感謝できると思うんですね。条件抜きの愛情です。まあ、でも、物事が楽しく上手くいっている時に、幸福感に包まれありがたいと思うことは、さほど難しくはないかもしれません。しかし、自分の中で(こうあるべき)と感じていることが上手くいかない時、物事がスムーズに思っているようにいかない時、そういう時が試される時です。大概そういう時は、親の目は自分の内には向かず、自分のエゴが原因だと気づきません。そして、子どもを変えるために子どもの問題にだけフォーカスしてしまいます。
私も昨日やってしまったことがあって、息子に後から謝りました。もうずっと、そのパターンが何年も続いておりますが、たくさん練習してきた経験があると、少なくても子どもの問題ではなく、(こうあるべき)と思っている自分の概念が問題だと気づくのが早くなります。昨日はムっときてから約10分後には、息子に謝りました。子どもはいつもと変わらず親をすぐに許してくれます。ありがたいことです。
P.S.
学校の先生の友人から昨日電話がかかってきました。一月に一回はお互いの近況を報国しあっているのですが、彼女に私の最近の病気の症状を伝えたら、「あのね、それったら絶対に風邪じゃないわよ。豚インフルエンザの症状そのものよ」と言っていました。彼女の生徒で何人も豚インフルエンザになった子どものケースを見ていて、そして彼女の娘さんも豚インフルエンザになったので詳しいのです。私はずっと風邪だと思っていたのですが、それにしたら2週間経ってもまだ正常に戻ってないのは、よく考えたら変でした。今もまだ胸の辺りが重い。そっかあ、確かに風邪じゃないなあ。高熱も続いてたし。今更ながらに豚インフルエンザの症状をネットで調べてみると、ああ・・そのものじゃん。しかし、早いうちにインフルエンザにかかっておいて良かった。これもある意味、逆境に感謝できる気持ちでしょうか。それともただのバカ?ずっと風邪だと思ってたんだから。ま、だとしたら豚インフルエンザってそんなに怖くなかったのね。
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