デイビッド・ウィルコックのサイトにあったビデオで、ピート・ピーターソン博士(なぞの人物)が、2012のような世紀末の映画のほとんどは、制作資金の一部が政府から出ていると言っていました。ほんとですかぁ?それったら、税金払っている国民にどう説明するのでしょう。さて、この博士について早速ググってみると、情報はほどんどでてきませんでした。高名な同姓同名の方がいて、その方のインフォメーションはたくさんでてきます。しかし一体何者か見えない方ですが、話の内容を聞いてみると、とても聡明で現実的な方だと思いました。ちなみに私は2012年なんていう映画は絶対に観ません。なぜなら視覚的に脳に入ってくるイメージによって、私の超プライバシーの脳の無意識の領域が、他人によってコントロールされると思っているからです。だから、資金だって大真面目に出されるんです。サブリミナル効果を心得ているからです。
けっして動揺の表情ではなく、(そんな非科学的で証明しようがない考えには、答えようがないじゃないか)と言っているような、ちょっと守りの姿勢が顔に表れていたように見えました。だとしたら、ピーターソン博士はこれから2012年に向けて来ようとしている、世紀末のような状態を人類は避けることはできないと考えているのではないか・・・と私はビデオを観ながら感じました。反対にウィルコックは、なんとか自分が思っていることを博士に言わせたいと、誘導しているように見えました。博士はちょっとイラっとしてたようにも見えます。
人々が情報を探し真実を求める心理はなんでしょう?
すがることができる拠り所を見つけようとしているからでしょうか?
ピーターソン博士がビデオの中で何度も言っていましたが、世紀末のような状況になった時に、頼れるのは自分しかいないとのことでした。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時には、人は利他主義にはなれない、ということなのでしょうね。一個のパンしか残っていなかったら、それを争って自分が食べようとするのが人間なのかもしれません。
愛だ光だおっしゃっている方もたくさんいますが、それを語ったりコンセプトを理解するのは、誰でもできることだと思います。特にのほほんと生きられる社会で、愛だ光だ友愛だと言うのは簡単なことです。しかし、本当のサバイバルの危機に立たされた時にも、利他主義を貫き一個のパンを人と分けることができるのか?
もし、おにぎりが一つしか残っていない時に、自分の子どもと人の子どもが目の前にいたら、どうします?周りには誰もいなくて、どのような行為をしても咎める人がいないとしたら、それでも、自分の子どもと他人の子どもを同じように扱えるでしょうか。「生きたもん勝ちよ」と罪悪感さえも感じずに、自分の子どもにだけおにぎりをあげるか、罪悪感を感じながら自分の子どもだけにおにぎりをあげるか、それとも生死にこだわるよりも、精神の在り方にこだわりを見つけ、美しくあろうと決心し、自分の子どもと他人の子どもに、平等におにぎりをあげるか・・・選択はさまざまです。
アメリカ人は一個のパンしか残っていなかったら、殺してパンをとろうとする人が多いことでしょう。おにぎりで争いになるかどうかは分かりませんが、彼らはパンなら戦うと思います。(笑)ちなみに食料がなくなった時に、食料と交換するために効率のよい物は、銃弾とウィスキーだと友人が言っていました。金など持っていても、食べられない時には使いようがありません。「食べられなくなった時に持ってるといい物って何だろう?」とアンディーに聞いてみたら、「塩」って言ってました。塩は食品を長期に保存できるので、物々交換する時に持っていたらいいということなんですね。過去、略奪され続けてきたユダヤ人は、物は持っていても摂取されるけど、頭脳だけは誰にも奪えないと子どもを教育しているようですが、その場合の教育とは、知識だけでなく考える力も直感も、生きるために必要なものとなってくるでしょう。
しかし、日本の場合はどうでしょうか?
日本人の中にまだ残っている、他人と協調し調和し利他主義を貫き生き延びる力、私はこれに期待しています。
学校教育の中で他を蹴落としてまで、自分が競争に勝つことを教え込まれてきた日本人ですが、それでもまだ私たちのDNAの中にある、他と助け合い共存するという能力が残っていると信じています。しかし、助け合い共存するのは依存とは違います。個々がしっかりと自分の足で立つことができ、精神的に自立している者同士が助け合うということです。真剣に生きるためには、「すがるんじゃねえ!すがらせるんじゃねえ!」というのは、自然の掟なのかもしれません。
今、情報をむさぼり読んでいる人たちが置かれているプロセスは、自立するためのプロセスだと思います。(裏では世界はこうなっていたのか)と打ちひしがれ壁にぶつかり、ではどうしたらいいのか、という出口を探すためのプロセスです。壁にぶつかったまま恐怖に慄いたまま、情報に埋もれてしまい、情報探しに翻弄するだけでは、ただの漂流者になってしまいます。しかし、何も知らない、考えたくない、何も見ない、何が起こっているのか知りたくない、変化が怖いから明るいことだけ考える・・・というのは、ポジティブな強さではないでしょう。それは単に、受け入れ難い状況を認めようとしない防衛の姿勢です。自分の今居るところに留まっていたいために、変化しないようにしがみついているだけです。
分かっていて今を生きるのと、何も分からずに今、目の前にあることだけを考えて生きるのでは、叡知に雲泥の差があります。自分の目で現実を直視し、自分の心の中でよく考えて、そして自立して人と助け合える力を持ちたいものです。
P.S.
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デイビッド・ウィルコックについて書いてあるサイトをいくつか見てきました。自分の直感に引っかからなかったので、そのままスーッと目を通しただけですが、
マミーさんのおっしゃる人の心の誘導の仕方は、カルト宗教のやり方とさほど違わない……というご指摘は、その通りだと感じました。
私は楽観的な人間なので、厳しい現実を見つめなくてはならない今のような状況で、心の底は現実が常に良い方に展開していくことを信じてしまいがちです。最悪の場面に直面しても、良いときとちっとも変わらなくて、最悪とも感じず、マイペースに歩んでいるだろう……頭に鈍感のつく楽観的な面があるので。
ただそうした性格の素の部分から出てくる言葉とは別に、深刻にこうしたことを受け止め、考えてもいます。うまく言葉にできないのですが……考える機会を与えていただいてありがとうございます。
投稿情報: なおみ | 2009/11/29 22:18
コメント書きにくい日記に、コメントありがとうございました。(笑)
デイビッド・ウィルコックスはとても理路整然としているし、ディベートも上手です。しかも、ものの言い方に絶大なる自信があるように見受けます。例えば、自分はこんな夢を見て、それが現実化するだろうとは、普通の人は何の疑いもなく断言することができないと思うのですが、彼にはそれができる。なので追従する人が出てくるのでしょうね。人は強い人についていく習性があるようです。
誰でも楽観的なところと現実的なところがあるのでしょうね。でもその度合いが・・・超がつくかつかないか?なおみさんの場合は、超楽観的なようですね。(笑)うちの夫も楽観的なところがありますが、彼の場合は現状を把握してないかも。ぷぷ
私の場合は、今の現状に対しては悲観も楽観もしていません。今を生きるだけです。と言ったら、やっぱり現実的となるのでしょうか。
投稿情報: マミ~ | 2009/11/30 12:07