少し前、インフルエンザに罹り高熱が出たのですが、今回のインフルエンザも然り、完治するまでに3週間はかかりました。その間、ほとんど動けない状態の時は、夫が牧場に馬に餌をあげに行ってくれましたが、数日以外はやはり毎日の日課で、私は馬たちに餌をあげに牧場に行きました。
その時、健康な時には気づかなかった面白いことを、私は馬たちに学ばせてもらいました。一つはルナにはヒーリングする力がある!ということ。もう一つは身体が健康でなければ、自然界では見捨てられるということ。
熱が下がった後でも、私の肺の機能は通常の85%くらいでした。喘息だったため、呼吸を測定する物を持っているので、自分の家で測ることができます。気管支が詰まっているからか、または肺がウィルスでやられているからか、明らかに通常の酸素量を身体に取り入れられない状態です。これはあくまでも私の体感で、メディカルの知識があって言うのではありませんが、たとえ10%だけでも、普段より取り入れる酸素が少なくなると、劇的に体力が減退します。ですから、私がいつも何気にしている行動・・例えば、身体を曲げて地面にあるものを拾うとか、車から降りて10メートル歩くとか、そんな些細な行動でも、身体がとても重たく足取り鈍く、ちょっとのことで息がハアハアなっていました。
さて、ルナの後ろ左足は、まだ赤く傷口が開いています。彼女は歩く時はびっこをひき、立ってる時は怪我をした脚を上にあげて、地面に着かないようにしていることが多く、その分、他の脚に負担がかかっています。なので体重が重くなると負担も大きくなると考え、ルナにあげる餌の量を減らしています。しかし、いくら餌が減っているからとは言え、使ってない筋肉が衰えるのがこんなにも早いとは・・ルナのボディーは、怪我をしている脚の後方の筋肉が、反対側の筋肉と比べてかなり削げてしまい、体全体が斜めに傾いてしまってます。
呼吸が苦しいと身体が言うことを効かなくなるという、病気前と後では劇的に変化があるのと同じに、一度身体の調和が崩れてしまうと、まるで秤のバランスがガタンと一方に傾くかのように・・崖から転げ落ちるように・・山が崩れ落ちるように・・あれよあれよという間に、状況が悪い方向に行くこともあるようです。ですから、身体が少しでも不調の時は、本当に自分の身体を労ってあげ、大切にしないといけないのですね。ほんの少しバランスが崩れ、ほんの少し不調和を起こすだけで、急激な悪化に繫がることもあるのですから。
私は病気の身体をひきずって、ルナに餌をあげ、彼女の足の心配をし、彼女の側に立っていて、(あれっ?)と思うことがありました。それは、彼女の側にいる時には、自分の呼吸が苦しいとか、身体が重いとか完全に忘れていて、身体がスウっと軽くなり、まるで病気だということがウソのように消えてなくなるのです。しかし1日目は、身体がたまたま調子が良かっただけだと思い、ルナにヒーリングされているという考えに直結していませんでした。
肺が息苦しかった状態は3週間は続いていましたので、次の日も、また次の日も、またまた次の日も、私は数歩歩いてはハアハアしながら、馬たちに餌をあげに行っていました。車から降りるのもゆっくりで、餌をすくってバケツに入れ、馬たちの所に歩いていくのも、足取り軽くは行けません。喘息の発作の時を思い出しますが、発作があるとたとえ咳が出ていなくても、身体がものすごく重くなります。熱は出ないし、喘息の発作は必ずしも咳を伴うわけではないので、特に軽い喘息の発作の場合、症状が表面に出ません。なので周りの人から、なんで病気じゃないのにダラダラしているのか?と思われるだけでなく、自分自身でも(私は怠け者なのか?)と罪悪感を持ってしまいます。
自分自身にそのような子どもの頃からの経験があるため、私は自分の子どもが元気がなく、やる気がないように見える時には、まずは身体のコンディションを疑ってみるようにしていました。症状が目に見えない身体のコンディションも含めてです。特に小さい子どもたちは、自分の身体の状態を自分自身で知り、それを分析して大人に報告することができません。なので症状が表面に出ていない場合、本来は身体の問題であるかもしれないことが、(やる気がない)、(心が弱い)、(怠け者)などというレッテルを貼られる恐れがあります。
私の甥はそういうレッテルを貼られてから、もう20年以上経ち、そのレッテルを甥自身、そして周りの人たちも信じ、それが彼の性格であると、確固たるものになってしまいました。でも私は甥が小さい頃から、彼は胃腸が弱かったのだと思っていました。胃腸が丈夫じゃないため、身体が本当に疲れ易いのではないかと思っていたのです。なので精神を鍛えるとか、心の問題とかは二の次で、まずは胃腸を丈夫にさせてあげる毎日の食生活とか、必要であれば漢方とか、そういうことが子どもの性質を変えるために、できることの一つなのではないかと思っていたのです。しかし、残念ながら遠くにいるために、そこまで私が口出しをして、甥の面倒を見ることはできませんでした。
私は小さい頃に身体が弱く、喘息持ちで、年中風邪をひいていて、1年の半分は幼稚園に行けなかったので、自分の身体が弱かった経験があるためか、どうも人の身体のコンディションに敏感になる傾向があります。夫などは私の逆で、周りがみんな風邪をひいていても、彼はいつもピンピンしていて、あの免疫力は一体なんなのだ!?というくらい身体が丈夫。なので、彼は人の身体のコンディションには極めて鈍感で、私が熱があっても「今日はご飯なに作るの?」とヘロっと悪気なく言ってしまう人です。しかし、あまりの鈍感さにムカつく時もありますが、反対に救われる時もあります。夫はルナを見ても、明らかに目に見える、ルナの脚の“傷”が良くなったとしか見えないようで、身体全体のバランスまでは気が回らない。なので「大丈夫。よくなってきているじゃない」と楽観的に言ってくれます。考えすぎの私は、この鈍な楽天家君が救いだったりします。時には、気づかないために楽観的になれる夫に、ぬお~っと思う時もありますが、私たち夫婦は上手くバランスが取れているのだと思っています。
反面、息子の場合はとても敏感で、ルナのことを見る時に、彼女の身体全体を何気に無言で観察し、脚だけではなく細かいところに気づいています。「前よりも怪我をした脚に体重をかけているみたいだから、少し良くなっているだろう」とか、「筋肉が前よりついてきたみたい」だとか、そういうことを観察した上で「まだ、先は分からないけど、前よりは良くなっていることは明らかだから、何か問題が起こらなければ、今よりは悪くなることはないと思うよ」と、とても現実的な意見を言ってくれます。つまり彼の見解では、今もまだ秤のバランスは微妙に揺れている状態であるため、このままその状態を上手く保てばいいのではないか、ということです。息子は悪く考える理由がない限り、物事を明るく見るという、男っぽい割り切った考え方をする人です。が、私の場合は、特に身体のコンディションに対して、つい心配したり、不安になったりしがちなため、「心配する必要のないことは、最初から心配しない」と、パキっと割り切ることができないで、揺らいでいることが多々あります。
広い空の下、遠くまで大地が見渡せる中で、風に吹かれながらルナの側に立ち、滑らかな毛におおわれた、温かく柔らかい体に手を置いている時に、(不安を完全に払拭させ信じる)というマインドには、私の場合は自動的にはなれません。なので、毎日が心の修行です。自分の中の揺れ動く気持ちに気づき、それを消す。不安や恐怖を感じたら、それを消す。裏づけのない楽観的な気持ちや期待も、消す。そして、彼女自身の(生きる)OR(生きるのを止める)という選択を尊重する・・・
そう思ってルナの横に立っていると、自分の肺が苦しいとか、呼吸が辛いなど、全く忘れてしまう境地になります。彼女の隣にいる時は、自分のことなど考える隙間がなくなるのです。1日目ルナにヒーリングされたのかも?と思った私は、2日目はどうなのか、気をつけて自分の身体を観察していました。やはり2日目もルナの側に居た時、そしてその後しばらくは、肺が楽になっていました。3日目、4日目も!そして、それをハッキリと認識できてからは、(ルナのところに行けば楽になる・・)と思い込んでいました。こんな按配のいい薬はありません。なんだか分からない化学薬品を身体に取り入れずに、具合がよくなるのですから。
しかし、自分のことを忘れるくらい、ルナのことを考えることができる・・・これはもしかしたら・・・自分の苦しさを忘れるくらい、相手のことを思うこと自体がヒーリングとなるのであって、決してルナがヒーラーではないのかもしれません。とすると、我、我、我、自分、自分、自分をなくして、馬の世話をする。我、我、我、自分、自分、自分をなくして、子どもの世話をする。我、我、我、自分、自分、自分をなくして、病人の世話をする・・などなど。そのマインドさえ掴むことができれば、自分自身の内にヒーリングパワーを持てるのかもしれません。我を忘れる気持ちで、人や動物を癒したいと思う心を持つことで、具体的には、自分自身の免疫力も上がってくる・・・もしそれが人に自然に備わった機能だとしたら?「情けは人のためならず」という諺は、思ったより深い格言だったのですね。
子どもによって親は癒されると言いますが、きっと子どものために親は、いい意味で我を忘れることができるのだと思います。しかし、子どもが目の前にいても、我を捨てられない親には、それを気づかせてくれるために、手を変え品を変え、子どもが「ママ、わたし(ボク)を見て」と言うように、次々と問題を起こしてくれるのかもしれません。
さて、馬で修行中の私は、ルナの側にいて、彼女の脚を気づかっている時に、ほんの些細なことで、一喜一憂する気持ちが浮かんできます。今日は、ちょっとだけびっこが軽くなっているみたい。今日の脚は昨日よりちょっと腫れてるみたい。あんまり歩いていないようだけど痛みがあるのかしら。顔は健康そうだし、食欲もあるから大丈夫だわ・・などなど。そして、不安になったり心配になったり、喜んでみたり安心してみたり。そんな小さな心の葛藤がある度に、自分より大きな存在である、彼女の運命そのものに身を委ねようと思うのですが、なかなか上手くいきません。心を山のように動かさず平常心を保ちたいものですが、どうもそうなる目標を手に入れようと躍起になるより、心が動いたり、自分の内に葛藤があったり、喜んでみたり悲しんでみたりという経験自体が、人間として生きているからこそ味わえる、人生の面白さなのかもしれないと、開き直る今日この頃です。
P.S.
ちなみに、今日はサニーちゃんとルナちゃんを広い所に放し飼いにしたら、サニーがわんぱくになって、ぜんぜん戻ってこないどころか、他の馬たちに挨拶しに行ってしまったり、遠くまで行ってしまいました。見てて面白かったのですが、道路に出たらまずいので、私はサニーを捕まえようとすると、掴まられるもんなら捕まえてみな~という、人をからかって遊んでいるような状態に・・・。ルナはサニーにおいていかれないために、サニーの後ろを走ってついて行き、トロットしたり全速で走ったりしていました。結局ラスティーが私の様子を遠くから見て、助けに入ってくれて、トラックで道を塞いでくれたおかげで、私はロープを振って彼らを自分たちの原っぱに戻すことができました。が、その後、ルナが脚が痛くなったみたいで、藁の上に横になっていたので、またまた心配が始まってしまいました・・・。人生こんな小さなことで一喜一憂あって面白いです。
P.S.
にほんブログ村のランキングに参加しています。
よろしければポチっとクリックお願いいたします。
↓ ↓ ↓
「気づかないために楽観的」とか「悪く考える理由がない限り、物事を明るく見るという、男っぽい割り切った考え方」や「心配する必要のないことは、最初から心配しない」と、パキっと割り切ることができないで、揺らいでいる……と、同じ現状を目にしてもいろんな心のあり方があるのですよね。
私は自分のことを楽観的、楽観的……と思ってきたけれど、(周囲に脳天気、自由人と言われるからでもありますが)こうして微妙に細かい部分まで描写しようとすると、自分の感じ方ってどんなのかなぁ?と考えてしまいました。うちのダンナは、「気づかないために楽観的」な人で、うちのムスコは、「悪く考える理由がない限り、物事を明るく見るという、男っぽい割り切った考え方」の子で、娘は、「心配する必要のないことは、最初から心配しない」と、パキっと割り切ることができないで、揺らいでいる……のは確か……。でも自分は……?
一番近いのは、身体が弱かったから……というマミーさんの話と感じ方ではあって……自分でもわかりにくいです。
もともとが敏感過ぎ、神経過敏、病弱、ADD脳で外の刺激を受け取り過ぎて混乱を起しやすい性質と表裏一体の「楽観的」なので、周囲には??ですよね。きっと夢見たり信じたりする気持ちが人一倍強いのかもしれません。自分をいつも自分の内面の理想(夢見ていることや信じていること)にすっかり預けて、今を過すことに夢中になっていますから。
マミーさんの文章で、いろいろと考えてしまいました。面白かったです。
投稿情報: なおみ | 2009/11/30 16:50
私は完っ璧、ロバート・タイプやわぁ。(自信あり)
そういえば「鈍感力」なんて言葉もあったよなー。
確かに鈍感な人って、ある種の力っつーか、強さを持ってる気はする。
ドゥーゲン・タイプの人には、ほんっと憧れるわ~。
でも無理をせず、私は私で生きていく決心をしています。
単に向上心がないだけかも…?と思わないでもないが。
投稿情報: えどまむ | 2009/11/30 21:21