先日『癒しの力』でルナはヒーラーかも?ということについては書きましたが、「健康な時には気づかなかった面白いことを、私は馬たちに学ばせてもらいました。一つはルナにはヒーリングする力がある!ということ。もう一つは身体が健康でなければ、自然界では見捨てられるということ。」こう書いたもう一つの学びについて、今度書こうと思っていてすっかり忘れてました・・・ということで、今日は「身体が健康でなければ、自然界では見捨てられる」について書いてみたいと思います。
但し、ここで書きたいこととは、弱い者は人間でも生きていけないという、ファシズムの中に見られる優性思想的な考えではないことを、前もっておことわりしておきます。短絡的に、動物の世界は健康じゃないと生きていけない、人間も動物であるから、人間社会でも動物の社会と同じように、弱者は生きるべきではないのだ、ということを馬から学んだワケではなく、お伝えしたい意図は全く違うところにあります旨、お話しを進める前に強調しておきます。
さて、今はサニーとルナはまた一緒の原っぱで生活していますが、ルナが怪我をし動物病院に一週間入院した後は、彼女はしばらく馬房で生活していました。馬房とは英語だとストールと言いますが、5メートル四方くらいのフェンスや壁に囲まれた、馬のベッドルームみたいなものです。馬房に入れていたのは、怪我をしている足を使わせないためです。また原っぱに出したら木に引っかかったりくじいたり、何があるか分からないためです。私はルナの馬房生活中、彼女の包帯を取り替えたり、馬房のウンチ掃除、餌をあげる、ブラッシング、水を取り替えるために、1日2回ラスティーの所に出かけていました。ルナはすぐに馬房生活に慣れたようで、箱の中で安心して生活していたように見受けました。最初は、こんな狭い中にずっと入っているのは、かわいそうとも思ったのですが、ルナにとってルームサービスつきのホテルに滞在しているような状態は、そんなに悪くもなかったようです。
それが明らかになったのは、少し脚の傷が良くなったと思ってきた頃に、馬房から出して元いたお家に帰してあげようと思い、サニーが居るところに連れて行った時でした。この時ルナは、なんとなく怖がっている様子だったので、(なんでもっと広い所に行けるのに、うれしくないのだろうか?)と少し訝しく思ったものの、そのままサニーのいる所にルナを連れて行きました。ちなみに馬の目は完全に安心しきっている時は、トロンと大きくかわいい目になるのですが、怖がっている時や怒っている時など、黒目の部分が縮小して、目の中に白い部分が普段より多く見えます。人間でも感情によって瞳孔が収縮すると思いますが、馬の目も人間の目も脳への窓口として、感情を目を見て判別できたりします。人間の場合でも、恐怖、うれしさ、悲しさ、驚き、自信などの、ハッキリと区別できる明らかな感情は、相手の目を見て感じとれる時が、無意識もしくは意識的に多々あると思います。
ルナは原っぱに入ってすぐ、自分の身を隠すように、奥の林の木陰に入っていきました。サニーは原っぱの真ん中に置いてある干し草を食べていました。私の想像では、ルナはサニーの隣にすぐに行き、一緒に干し草を食べると思っていたので、彼女が遠くに行って隠れている様子は、ちょっと変だなと思ったものの、動物の世界に対する嗅覚がまだまだ鈍感な私は、馬たちをそのままにして家に帰りました。
次の日、馬たちの所に行くと、ルナはやはり遠くの林の中に立っていて、サニーだけが干し草を食べていました。そして私がルナに近づくと、なんと傷だらけになっていて首と胴の辺りから血が出ているではないですか!よく見るとサニーは後方の脚をびっこひいていました。ルナの傷はかなり深いものもありましたので、また馬房に戻し、脚の治療だけでなく、新たにできた傷の治療も増え、本当にかわいそうなことをしてしまいました。動物のように危険を察知できない、鈍感な自分のせいで、ルナにいつも悲惨な目に会わせてしまっていることで、私はなんと馬鹿者なのか、いつも反省しきりです。
ルナの怪我で思い出したのが、野性の馬のビデオでした。ビデオの中で何らかの機能不全で生まれた仔馬が、生まれてすぐに立てないでいるのですが、周りの雌馬たちが仔馬を助けようと、励ましている様子が映されています。とても微笑ましい情景です。しかし、生まれて自力で立てなかった仔馬の側から、しばらくすると雌馬たちが諦めて離れて行きます。すると一部始終を遠くで観察していた雄の群れのリーダーが突然やってきて、仔馬の匂いを少し嗅いでから、おもむろに仔馬を口でくわえて振り回し、その場で仔馬を殺してしまうのです。
ビデオのことを思い返して、ルナとサニーの怪我の様子から察したのは、(怪我をしているルナは、自ら群れと混じ合うことを避け林の中に隠れた。サニーは怪我をしているルナを群れから追い出すために攻撃し、それが隠れていた林のバラ線の近くだったため、ルナにいくつもの赤い線の傷ができた。ルナをアタックした時に、かろうじて自己防衛をしてサニーを蹴ったため、サニーもびっこをひいている・・・)ということでした。
群が移動する際に、動けない馬がグループにいたら、群全体が危険に晒されることになるます。また、立ち上がって動くことのできなかった、仔馬を殺してしまったリーダーでしたが、もしかしたら、その仔馬のためにもその方が良かったのかもしれません。なぜなら、群みんながその仔馬のために犠牲になって、そこに立ち留まることがないことは確実ですが、しかしそのまま仔馬を置き去りにしたら、仔馬はもっと残酷な死に方をするかもしれません。などなど、色々考えさせられましたが、動物が生存するために、自然の掟にそってとられる行動は、馬が人間に飼われて何百年も経っていても、サニーやルナの脳にもそのような記憶が残っていた・・・ということなのかと私は考えました。
これは馬と馬の間のことだけでなく、サニーは私にも同じようなことをしました。先日インフルエンザの後、まだ身体がフラフラしていた時に彼らの所に行き、サニーに綱をして広い所で草を食べさせてあげました。その時、なんだかサニーは落ち着きがないとは思ったものの、最近はとても私になついているので、何も心配せずに綱をほどいて自由にしてあげました。すると、ほどいた途端、私から逃げるように遠くに離れるのです。そして、私が近づこうとすると逃げるのです。しまいには、捕まえようとすると、逃げ回って遠くまで行ってしまい、私の言うことなど全く聞かず、ものすごく反抗されました。そしてサニーが行ってしまった方に、彼を追いかけるために、私はゼイゼイし咳をしながらたくさん歩かされるはめになりました。
あまりにも普段と違うサニーの態度から、私が病気だからそうなっているとすぐに気づきました。そして、病気で身体が大変であっても、氣だけはしっかり持っておこうと、咳がでるとかゼイゼイするとか、そういうことに神経がいかないよう、自分の中で一生懸命心をコントロールしてみました。ところが元々身体が弱かった私は、過去の弱かった記憶と結びついてしまうため、気丈には容易にはなれません。いつも病気になったことのない人は、ちょっとくらい何かあっても、気持ちだけはぜんぜん平気で、身体の心配しない人が多いように見えますが、私の場合はそういう人の逆です。なので、いくら気丈でいようと心を自分でコントロールしても、身体が健康な状態じゃないと、それができない弱い自分がいるのだ・・・とほほ、と悲しくなりながら、一向に掴まらないサニーを追いかけていました。かなりの時間ゼイゼイしながら、一人で広い野原で馬と鬼ごっこしていたのですが、いいかげん感情的にも平静を保てなくなってきて、最後には、身体はくたくた足取りは重く、怒りまでこみ上げていました。しかし平常心平常心と自分に言い聞かせていたという・・・それだけ、まったく平常心を失っていた状態だったんですね。
身体が普通の状態であれば、サニーはそのような態度を取ることはありません。でもこの時は(こんな弱いリーダーについて行ったら自分の身が危ないわい。逃げろ、逃げろ)という感じで、完全に反抗されていました。サニーの件があってしばらくして、トレーナーのトレバーにこの時のことを話しして、「いつでも人間がリーダーシップを持っていなければ、馬が安心できないのは分かるけど、でも自分の身体が病気な時はそれができない。だとしたら馬は若くて健康な時じゃないと扱えないものなの?自分が病気の時はどうしているの?」と私は聞きました。
彼は、「はっはっは。身体の調子が悪いということを馬に隠すことはできないよ。」と言います。「でも、病気のリーダーと一緒にいたら、馬にとっては危険だって思うんじゃない?」と私が言うと、「病気の時に、身体は弱くて氣が入らないけど、でも気持ちだけはしっかりしていると、自分の心を偽って馬に接しても、馬にはその欺瞞が通じちゃうんだよ。心と身体のチグハグとしたギャップがあって馬に近づいたら、そりゃあ馬にとってはなんか危険だって思うだろうな。自分の身体が弱い時は氣だって弱くなる。でも、そのままの心で馬とつき合うんだよ。今日私は調子悪いけど一緒に仲良くしてねって、正直に馬と向き合うことだ。そしたらちょっと氣が弱くなっている時でも、逆に馬は寄り添っててくれるものだよ。」とトレバーは言いました。この言葉で、どれだけ私の目からウロコが取れたことか。
前出で、馬の様子を目で察することができるということを書きましたが、馬の様子は目だけでなく、身体全体からも感じ取ることができます。これは私たち人間も同じだと思います。人間も心の状態は、言葉だけで伝えられるのではなく、目から身体から、そして私たちから出されるエネルギーから、人に悟られてしまいます。例えば、言葉では「私は冷静よ」と言っていても、その言葉と一緒に吐かれている息が早ければ、その人は実は冷静ではないという、言葉とは裏腹の状態であったり、プレゼントをあげた時「うれしいわあ。ありがとうございます」と微笑まれても、目尻が固まっていたり、口元が笑っていなかったりすれば、本当はうれしいとは思っていないと目に見えて分かったりと、言葉だけでなくたくさんの情報を、人は身体から発しています。それだけでなく、怒っている人が近くに立っていれば、その人から発せられている氣に、なにかトゲトゲしたものがあって、顔を見なくても後ろ姿を見ているだけでも、その人が憤慨していることが分かる時ってありませんか?
馬よりも鈍感な人間の私でさえ、そのくらいのことなら感じることはできるのですから、私が身体が不調であることを自分で自分を騙して、氣だけは強く持たなければいけないと、いくら頑張ったところで、サニーにはそれが感じ取られていたのだと思います。
(続く・・・と思います)
P.S.
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