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学力は全米トップ0.1%の子とは、実はこんな息子でした・・・
今日は、学力は全米トップ0.1%の秘訣の一部を書いてみます。
私はきっと、超英才教育をしてきました。でも一般的に人が抱く英才教育ではないと思います。うちの息子は勉強で困ったことはありません。でも私たちは、特別な親にしかできない英才教育をしてきたのではなく、誰にでもできると思える方法で教育してきました。親が優秀であるとか、テクニックを知っているとか、教材がよかったとか、先生に恵まれていたとか、そういう外的なことが重要なのではなく、もっと内的な、親の心の在り方が大切なのでは?と、近頃強く感じています。
さて、超英才教育を受けている子とか、子どもに高度な世界情勢や科学や歴史について教えていると聞けば、例えば“クッキーを人とシェアすることができない子”というような、日常生活の小さなことができない、高慢ちきな秀才というイメージを持たれるかもしれません。英才教育というイメージは世間的にそうではないですか?しかし英才教育の一つの例として、高度な本の読み聞かせをすることは、そのような日常生活の教えを疎かにするという、短絡的なことではありません。また、世界情勢を教えたら、世界について頭でっかちになってしまい、お隣さんのことが分からなくなるということは、あり得ないのです。
私は小さな日常生活のことをきちんとせずに、うわべだけの学力アップのために、子どもを教育することには反対です。英語本の石井さんやまなりんのブログを読むと、(あんなに凄い英才教育をして・・)と思うかもれません。でも、テキサスで何日も一緒に過ごしたことがありますが、彼女たちは、小さなことで子どもをきちんと躾しています。子どもたちは、自分のことは自分でできるし、お手伝いもするし、他の子どもと仲良く遊べるし、大人に対して生意気ではないし、でも適当にいたずらしたり、我がまま言ったりもするし。(笑)英才教育を受けている子=頭でっかちの自分勝手な人の気持ちの分からない子ではないんです。まなりんの息子くんは超物知り博士。それだけでなく、物事を深く洞察し考察できる子です。でも、人一倍繊細でとっても気持ちが優しい子。石井さんちの双子ちゃんは、お嬢さんは人のお手伝いをして役に立つのが大好きで、息子くんは、、、えっと、この子は面白い子なので、好きなことをさせておいてあげましょう。私は昔からこの子がとってもかわいいんです。変な子で。(爆)
超英才教育を受けていたうちの息子も、石井さんとまなりんの子どもたちも、アロハちゃんが紹介してくれたビデオに出てくる秀才の子どもたちも、普通の子どもたちと同じように、それぞれに違った個性があり、英才教育を受けている子はこういう子である、という一つの枠に入れて、彼らの特色を定義できないはずです。あなたと私は違うように、あなたとあなたの親友が違うように、隣の子とあなたの子は違うように、みんな違うんです。例えば、うちの子の場合、もし私たちが全く教育してこなかったとしても、気の強い(なめんなよ性格)の個性の持ち主であったという、生まれ持った性質はそのままであったと思います。
つまり、高度な教育を受けたらこういう子になるのではないかとか、性質が変わるとか、感受性が豊かでなくなるとか、人の心が分からない人間になるとか、そのような、これまでに大人たちが幻想で抱いている、歪みがでてくるワケではないということです。問題は、競争に勝たせるための、学力アップのみを重視した英才教育を、子どもの意思を無視して与えるということで、それは、高度な教育、幅広い教育を子どもが小さな頃から与えることとは、全く別物だと思っています。やり方が問題であって、教育すること自体が問題ではないはずです。
と言っても、これは私の意見なので、いわゆる被験者(笑)であった息子に聞いてみました。「ドゥーゲンには小さい頃から、マミーとダディーが色々と教えてきたけど、それったら辛かった?」と。息子は「いいや。教えてもらって辛いとは思わなかったよ。だって、子どもは柔軟だし適応力があるでしょ。子どもにとって学ぶことは、生きるために自然なことであって、教えてもらわない、学ばせてもらえないという方が不自然じゃない?教えられることがあるのに、それをわざわざ教えないのは、教え過ぎることよりも罪だと思うよ」と言っていました。
私は自分の息子に、与えられた環境の中で、そこから外の世界を見ようとせずに、小さな世界(社会)の中だけで、上手く、楽しく、幸せに生きる術を教えていればいいとは、考えていませんでした。それには、隣にいる知らない子に、意地悪しないでクッキーを分けてあげましょうというような、目の前のことばかり教えていても、大局を見て、人が人種差別をすることへの考察には繫がらないと思います。しかし、大は小を兼ねるというように、大きな世界を見せてあげ、小さなことに繋げる方向はありだと思います。あくまでも例えばの話ですが、ヒトラーがユダヤ人にしたことを、いじめの問題と繋げて教えてあげることはできます。もしくは、そのように子どもに教えなくても、子どもは自然と、いじめを目の当たりにした時に、大きな問題と繋げて考察することができるようになります。
うちの息子の強味はここにありました。知識の詰め込みはしませんでしたが、長年、コツコツとしてきた教育によって、得られた考察する力が、後にエッセイ・論文などを書く時に役に立ちました。これは、知識ばかりの詰め込みで、学ぶことはできませんし、または、日常生活の小さなことを教えていれば、自然と身につくものでもありません。しかも、このような能力は一夜漬けで得ることはできません。これはOXで答えるテストで測れる能力ではありませんが、このような教育をしていると、自然と勉強しなくても、OXで答えるテストの点数は良くなります。というか、他の子どものことは分かりませんが・・・
うちの子の場合は、学校の勉強は一切教えたことがなくても、どの教科のテストでも、答えが分からないということはなかったみたいです。ミスはあるみたいですが。今でもテストの心配をすることは皆無です。でも勉強は普通の子よりしていません。彼が過去、勉強していた合計時間は、間違いなく日本の普通の高校生よりも、かなり、断然に、絶対的に少ないと思います。今も、大学入試のためにSATの勉強をせずに、夫と遺伝子工学研究の歴史というドキュメンタリーを見ています。私はこのことをあっちこっちで言っていますが、うちの子は小さい頃から、他の子よりも計算が速くできたとか、他の子よりも断然物覚えが早いとか、そういうことはありませんでした。むしろその逆で、幼稚園でも20まで数を数えませんでした。
さて、話しを戻しますが、自分のお友達のいじめの問題だけを知っていても、世界の差別の問題にまで、意識は派生するでしょうか?教わらなければ自然とそれらを繋げて考えることはしないでしょう。森を把握することで、森の中の木や葉っぱが見えてきますが、葉っぱだけ見せていて、それが全てであると教えていた場合、自然と森が見えるようになるとは思えないのです。先日書きましたが、子どもは親から言葉を教えてもらうことで、言語を習得しますが、親が言葉を教えなければ、言語のない子になってしまいます。このように“教えるか”、“教えないか”によって、子どもの一生を左右させるくらい、ものすごく大きな違いがでてくると私は考えています。
更に言えば、私たちが今の段階で知覚している森の外に、もっと大きな世界があるかもしれません。親は森まで見えていたとします。でも、森の先にはもっと別な世界があるかもしれない。もし、人類の全てが、葉っぱだけ見て生きていたら?今、与えてもらっている世界で、毎日をその場その場だけで生きていく知恵しか持たなかったら?過去の人類が全てそういう人たちだったら?今、私たちが享受している社会はなかったことでしょう。考えることをやめない、ということは、森の先に何があるか探索し続け、そして発展があるのだと思います。しかし、今立っている場所に立ちつくし、ここが幸せだからこれでいいと思ったら、人類は進歩してこなかったはずです。
昨日、家に遊びに来た友人が、彼の奥さんのお父さんの話をしていましたが、そのお父さんは昔、バリバリのエンジニアだったそうです。しかし引退した途端、前向きに生産的に生きることをやめたらしく、昼間はカフェでコーヒーを飲みながら、新聞を読み、人と楽しく談笑し、毎日ほとんど何もしないで過ごしているそうです。一緒にいてお気楽で楽しい、いい人らしいのですが、家の屋根に穴が空いても、そのままにしておく。トイレが壊れてもそのまま。床に穴が空いたらそこにマットレスをポイと置いてお終いらしく、昔は素敵だったお家が朽ち果てて、今では周りの木々と一体になってしまったと思えるほど、家にツタがはってボロボロだそうです。
このおじさんとは間逆の生き方は、進歩・発展・改革など、建設的に生きるということですが、そのために、将来なにをしようとか、未来という前ばかり見ていたらいいということでもないとは思っています。前ばかり見ていたら、目の前にある物につまづいてしまいます。かと言って、自分の足元だけを見ていたら、自分が今、どこに居て、どこに向かって歩いているのか見えません。進歩することを止めて、今に存在するだけという達観して生きることは、それはそれで素晴らしいことだと思います。しかし、それは教えれば分かるというものでもなく、経験や体験という、生きる年月を通して、自らが学ぶことであって、その学びは一生続くはずです。
達観する心を持ちつつ、社会に生まれてきた一員として、社会の中でどう機能して生きていくのかということを、子どもが自分で発見していかれるようなる、そういう“土台作り”は親から受ける教育と、親の生き方を見せることで、子どもの中で育まれるのだと思います。なので、人一倍学び、人一倍勉強し、人一倍経験し、人一倍体感し、人一倍高度な知識を持ち、人一倍感受性が強くなり、人一倍考察することで、社会から隔離される人間になるのではなく、培われてきた能力を、どう精神性と結びつけ、社会に還元していかれることができるか、そういう力と心を伴った人材を育てているのが、私たち親なんです。
今週の日曜日に家に遊びに来ることになっているのは、正に上記のビデオに出てくるギフテッドの子が、大人になったらこんな風になるのでは、と思える人です。マークはMITのメディアラボ出身で、東大にも在籍していました。日本語がペラペラなだけじゃなく、4,5ヶ国語を話せます。彼はデュポンが投資している会社を立ち上げた創立者の一人で、私が知り合った頃(10年以上前)は、マークの自宅でMIT出身の人たち数人と一緒に、ホログラム(平面なのに立体に見えるんです。うちの子が小さい時、あまりにリアルなのでイメージを手で触ろうとしていました)の開発をしていました。今は社員が60人以上の会社の重役になっています。
私がこれまでに会った、本当に頭のいい人とはこういう人のことだなあ、と思った一人がマークなのですが、彼はテクノロジー、政治、経済、歴史などに明るいだけでなく、右脳で思考する創造的なことや芸術・文化にも精通していて、それでいて謙虚で心の優しい人です。自宅でホログラムの開発をしていた頃とは違い、今は会社の重役ですから、社会的にも成功していてます。しかし、この間「ボクは仕事をしながら学んだことを今度は文化に活かせたらと思って、今、ボランティアやってるんだよね」と言っていました。
まだまだ続くか・・・
あ、そうそう。
昨日の夜中、ゼファラスを買ったアラビアン・ファームの人から電話がかかってきました。
「仔馬が産まれたわよ~。見に来る~?」と。
夜中の12時半過ぎでしたが、息子と一緒に行って来ました。
後ろで喋っているのは私と、野太い声は息子です。
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