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子育て中の方は、是非、こちらを読んでみてね
学力は全米トップ0.1%の子とは、実はこんな息子でした・・・
“子どもの能力を伸ばすためには、子どもを支配的に従わせるのではなく、その子の持つ個性である性格や能力を尊重しつつ、インディペンデントに選択して行動できるよう教育する・・・“ これって、馬の調教と全く一緒なんです。馬と子どもを一緒にして!って怒らないでね。で、馬の場合、トップ・パフォーマーたちは、ナチュラル・ホースマンシップと言われる、馬の心の声を聞いて(どうやって?笑)調教する方法を、多かれ少なかれ取り入れていると聞きました。ま、つまり、ギュウギュウと無理矢理やらせたからって、馬が持つ能力を引き出すことはできない、ということなんですね。人間の子どもも同じじゃないかしら。
英才教育というと、どうしてもギュウギュウ教育していると思われるみたいですが、もしそうだとしたら、目の前の成果を早く見せてくれても、後から伸びる子、自然と伸びる子、ほっておいても自らの意思で学ぶ子にはならず、そのような歪が実際に日本で、昨今、浮き彫りになってきているみたいですね。
今日は、英才教育とはどんなことをするのか?ということを少し具体的にお話させていただきたいのですが、私が思う英才教育とは、基本は“子どものやりたい”を見つける。もしくはやりたくなるように親が策士になる時もあったりして・・・。(笑)でも決して、親が子どもの意思を無視して、一方的に与える教育ではないということを前提とさせてください。そもそも、英才教育という言葉自体が違うのかもしれませんが、他に何か言い方があるかしら?早期教育?う~ん、これはこれで別な意味に取られちゃうしなあ・・・。ネーミングを考えないと、なんだか湾曲して受け取られそうですね。何かいい案があったら、どなたか教えてください。
さて、幼児教育には色々な理論があるみたいです。ここのところ、オンラインでちらほら読んでみたのですが、簡単なことが難解に書いてあると、読むのが面倒くさっ。(失礼)しかし、もし私が、今の時代に小さい子を育てていたら、世に出回る教育方法や、理論や、メソッドを全部総なめして把握しなければ、世間から自分の子どもだけ、乗り遅れてしまうと焦ってしまったかもしれません。
近年、子どもの教育(論)や子育て(論)が、複雑になってる気がするのだけど、だけど、そもそも、幼児を教育することって、そんなに複雑なものだったのだろうか?子ども自体、また親と子どもの関係自体は、今も昔も同じはず。それとも、私が子育てしてた時代から、またはもっと昔と比べて、おぎゃーと産まれ出た子どもたちは、これまでとは違う生き物になってしまったのか?
で、、これまで私の話を読む中で、英才教育と聞いて(私にはできない)、(特別な人にしかできない)、(あの人の子どもが特別だったに違いない)、(ご主人が学者だからできたんだ)などなど、何もする前に・・失敗もなにもしていないのに・・自分にはできないと自動的に思ってしまった人もいるかもしれません。でも、そんなこと全然ないのよ~。
私はただの一母親でしかないので、その角度でもって勝手なことを言わせていただきますが、うちは難しい幼児教育の理論に沿ったり、または何かのメソッドに傾倒して、子どもを教育したことはありません。そもそも知らなかったし。子育て本読まなかったし。英才教育って言っても、私の中ではごく普通のことだったと思っているんです。一言で言うと『常識』です。常識だとしたら、特別なことじゃないワケで、特別に難しいことでなければ、簡単にできるということで、簡単にできるなら、賢い子は誰にでも育てられる・・・よね?
問題はですね・・・
やる
これに尽きるワケなんです。でも、じゃ、何をやったらいいのか?まず、手始めにいっちばん簡単なところから・・・
テレビを消す。
世に天才と言われる人で、テレビ漬けで育ってきた人はいるのでしょうか?何も天才を育てましょうと言っているのではありませんが。しかし、テレビを消せと言われたら、もしかしたら(テレビを全く観なければ、お友達との会話についていけなくなる・・)とか、(うちの夫はテレビっ子でしたが、彼は頭いいですよ~)とか、(テレビからだって教養を得られる)とか、色々消したくない理由はでてくると思います。
でもね、本をたくさん読んであげて、他の子どもと遊んで、外で体を使って遊んで、手先を使ったお部屋での作業をして、お母さんのお手伝いをして、お風呂に入って、ご飯を食べて・・・などなど、そんなことしてたら、テレビを観る時間ありますか?と言っても、全く観ちゃダメということではなくて。ただ、テレビを観る時間を削って、その代わりに生じた時間を、子どもの教育のために有意義に過ごしてください、ということです。教育とは、体を使って運動することも、自然の中で外遊びすることも、親の干渉なしに遊ぶことも、他の子どもたちと遊ぶことも含めてです。
テレビはあくまでも機械でできた箱なだけ。なのでテレビ自体が悪いのではなく、どんな番組を見せるかきちんと選択できればいい・・・のかなあ?でも、私なら見せません。っていうか、見せませんでした。みんなが飲ませているからと、毒が入っているジュースを子どもに飲ませますか?それと同じ感じ。ちょっと違うか・・。ま、でも、そのおかげで、息子が反抗期に至った時に、ほんの少しの間、息子から反抗されて、彼はテレビを観まくっていましたが、その反抗は本当にあっという間に終わりました。2週間くらいだったでしょうか。そして、私はやっぱりテレビは見せてこなくてよかったと思っています。息子自身もそれでよかったと、もっと大きくなった今では言っています。きっと彼に子どもができたら、やっぱりテレビを見せないだろうなあ。
とかなんとか、めちゃ主観的なことを申しておりますが、何十年前から言われているような、マクルーハンなどのメディア論から引用してきて、テレビの危険性を訴えたり、テレビ・メディアがいいとか悪いとか、それに対して議論するつもりは毛頭ないのです。でも、興味のある方は、テレビによって視覚で入ってくる情報が、人間の脳にどう影響を与えているとか、サブリミナル効果による弊害についてなど、調べれば色々と出てくると思います。調べたい方はがんばって。そして私に後から、バカでも分かるように簡単に教えてください。
ところで話はちとズレますが、幼児教育の分野でも、客観的かつ論理的なものではなく、主観的な“ただの意見”を見かけます。その場合、どのような根拠があって断言できるのか?と、時々、私のこめかみセンサーがヒクヒク動いてしまうものを目にするのですが、「これは自分の勝手な意見である」と正々堂々とうたって、好き勝手な意見を言う分には、まだいいと思うのです。→これは、私。(笑)でも紛らわしいのは、主観的な意見に、どっかから借りてきた、学者さんの話を引用してコーティングし、学者さんの説と混ぜこぜにしつつ、自分が主観でもって”感じている”方向に、人の思考を誘導しているものがあります。こういうものを見た時、さら~っと読んでしまうと危険です。気をつけて読まないと、言葉にごまかされてしまって、パラドックスに気づけないからです。もし根拠のない、単なる主観による一意見であるのなら、是非(自分はこう思う)というところで、留めておいていただき、自分の言葉だけで語って頂きたい。
さて、論理的だとかなんだとか、そんなに複雑に考えなくても、ただ単にフツーに考えたら、クリアーに見えるんじゃないかと思うことがたくさんあります。例えば、テレビを見せないことについては、「テレビ見せてる時間ないもの。ご飯作っている時に、テレビを見せる代わりに、手を使って何かを作らせるとか、読書の時間にするとか、ちょっとアイデアとエネルギーを使えば、テレビがなくても子どもは十分楽しく過ごせるもの。そしたら、子どもは能動的に自分で遊びを考えるようになるもの・・」とかね。もちろん、テレビを観ないだけでは、自然とそうはならないかもしれませんが、でも少なくても、テレビを年中見ている状態よりも、物理的に自分で想像しながら遊ぶ時間を創出してあげられますよね。
親が子どもの上にのしかかるように、能動的に英才教育をするのではなく、受動的に何気に環境を整えておくというのは、至極、大事なことだと思うのでした。ということは、子どもにテレビを見せないだけでなく、親自身がテレビのつけっ放しをやめないといけない、、、ということだに。
私がやってきたことは、全てにおいて難しい事ではなかったと思います。できないことじゃない。ただやればいいだけ。それだけなんです。でも、“やる“か”やらない“か、それが違いを生むのだと思います。そして、ちょっとの違いが、年月を経て大きな違いとなるんじゃないかしら。でもって後になって(しまった)と思っても、例え小さな事だっとしても、長年、積み重ねてきたことに追いつくのは難しいでしょう。勉強してこなかった私は心の底からそう思います。もし、昔からコツコツと学んできてたとしたら、今できることの可能性がもっと広がっていただろうと思うからです。と言っても、今は今で、自分にできる精一杯のことをしているのですが、やはり親というものは、自分の子どもには、できるだけ広範囲な選択肢を与えてあげたいと思うものではないでしょうか。
ここで本人に確認なく裏話をしますが、ブログで高度な家庭教育を披露している石井さんですが、(今、これを読んでいる石井さんは、ひょえ~って思っているだろう)、数年前にテキサスの我が家に、双子ちゃんを連れて滞在したことがあります。その前の年に、テキサス・ツアーで日本からお母さんたちがやってきた時、石井さんもそのグループにいました。彼女はその時、お母さんたちがおしゃべりしている中、ほうきを持って掃除したり、他の子どもたちが散らかした物を、黙々と無言でかたづけていました。私はこんなに謙虚な人なら、我が家に滞在してもらっても大丈夫だと考え、彼女たちは家に3ヶ月滞在することになったのです。
石井さんが来てすぐ、私はその前のテキサス・ツアーの時に、彼女がいつも掃除をしていたことに感心していたと伝えると、彼女はこう言いました。「私、人と交わるのが好きじゃないんです。掃除をしていれば、人と話しをしなくて済むので、だからあの時いつも掃除していたんです・・」と。 ガビーーーーン。そ、そ、そうだったのかあ。そんな人とこれからどうやって3が月も一緒に過ごしたらいいのかあ~っ!?私はひきつってしまいました。でもきっと石井さんは、私が困った様子は察してなかったと思います。なぜなら彼女はその頃、本当に人のことに興味がなかったから。つまり人がどう思ってもぜんぜん平気。更に言えば、人のことなどどうでもいい人でした。
ところが人って変わるのねえ。本当に360度も変わるのねえ。あ、360度だったら回転して元に戻ってしまう・・えっと、変わったのは180度です。で、石井さんは現在、チルドレン大学のママたちに、頼りにされ慕われている存在です。昔は、人のために舌を出すのも嫌だったんじゃないかと思える人でしたが(あ、言い過ぎ?ゴメンゴメン)、今では、自分の持っている知識や情報を、惜しみなく提供してくれます。どうしてそこまで変わったのか?それは、石井さんは“やる人”だったからです。
あーたらこーたら、できない理由を重箱の隅をほじくるように探して、だから自分はできないと、やらないことを人や物や環境などのせいにするのではなく、(そっか、いいかもしれない。じゃあ、やってみよう)と、何でも前向きにやる人なんです。テキサスでは車の運転も、「当然やるべし。じゃないとキミは生きていけない」と私に言われてやりました。ま、一度、事故を起こしたりしましたが、挑戦したおかげで石井さんは、今ではアメリカで地図さえあれば、どこへでも車で行ける人になりました。
英語本のもう一人のスタッフのまなりんも、今はブログで超高度な子どもの教育について書いたりしていますが、昔は教材を買いだめしてはぜんぜん使いきれず、そんな教材がお家にゴロゴロあるそうです。なのでまなりんは教材や知育玩具には詳しい。でも、彼女も“やる人”だったので、ただ、簡単なことをコツコツ続けてきたんでしょうね。その結果が、息子くんはまだ小学校にもあがってないのに、ブログを読んだら普通のママなら、ため息が出ちゃうような学びをさせています。ちなみに、彼女たちは子どもたちに外遊びをたくさんさせ、家のお手伝いも、手を使った工作などもさせています。外にもどんどん連れて行ってるし。
彼女たちをテキサスで観察していた限りでは、子どもたちのことはちゃんと見ているけど、無闇に手や口を出したりせずに、彼らを上手く見守っていました。それだけじゃなくて、自分の子どもよりも、他の子どもたちの面倒を見ていました。まるで昭和の、私が子どもの頃に近所にいたおばちゃんたちみたいだった。かっぽうぎ着て、おしゃもじ持ったら似合ってたかも。村が子どもを育てるんだよなあ・・・と話しがズレそうなので元に戻しますが、彼女たちは英才教育と言っても、特に鼻の穴を膨らませて、子どもを机に縛り付けてプリントワークをさせるみたいに、無我夢中に子どもを教育しているという様子ではありません。ただ、ブログを見ると、読み聞かせとか凄い・・・って見えて、一日中そんなことばかりしているイメージを持たれているのかもしれませんが、それは彼女たちがやっている子育ての、あくまでもほんの一部なはず。
チルドレン大学を受講されているママたちは、石井さんやまなりんだけじゃなく、バランスよく子育てしている人たちが多いと思います。子どもを家庭で教育していると言っても、別に無理矢理やらせているワケじゃないじゃないですか。みんな試行錯誤しながら、親のエゴをなくして子育てしようと、努力しながら毎日を生きていると思うんですね。でも、そういうことを横目で見ている人たちがいて、湾曲したイメージを作られてしまうのは、私はとっても心外です。私がそう直接言われる分にはいいんです。自分で違うぞって言えるから。でも、暗にチル大のお母さんたちがやっていることは、子どもにとって不本意な英才教育であるというような、湾曲したイメージを作られ続けていると感じる間は、私はそれは違うと言い続けます。
でね、石井さんやまなりんのブログを読んで、(私にはできない・・)って思う人たちが、いるのかもしれないなぁって思うのだけど。でも、できないって思う人たちの違いは一つだけです。やるかやらないか、それだけだと思っています。まあ、もちろん、何かをやる前に、当然、自分で(それはいいことかもしれない)と判断するからでありましょうが、でも、(いいことかも)と思うことでも、往々にして(だけどお・・でもお・・)と、やらない理由が出てきません?私もそういう時あります。
やろうと思って行動するには、強い動機が必要ですよね。でもそれが、自分のエゴを満たしたいだけのものだとしたら、継続してコツコツ続けることはできないでしょうね。だから、ビジョンが必要なんです。チル大生は・・・特に、チル大を再受講している方たちは、そのことをきっと体感として理解されていることと思っています。
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これまでマミ~が残してきたものを何度も読んで、今こうして新しく発信されているものを読んで、ぶれない何かをじわじわと感じています。
(そんなこと書いたっけ?とか、言わないでくださいね(笑)。)
仕事の中で感じていたこと、育児中に感じていたこと、チル大で感じていたこと、こういうのが、びみょーにつながり始めてる・・・と。最近ゾクゾクする感じがあります。細~い蜘蛛の糸が切れてはまた新たに構築され・・・という感じですが。
で、私は本来自分で考えるだけ、が好きですが、いろんな人に触発されてぼちぼち発信していこうかと、調子に乗っちゃいました。
でも、ダメな自分も含めて、なるべく等身大を出していこうと思います。(油断すると、ええかっこしぃになるので・・・)
ほとんど記事のないブログの宣伝でした・・・
投稿情報: はさみさ | 2010/02/08 00:27
はさみさちゃん
早速、ブログにコメントしたよん。
ブログ、いい感じ。
動物病院での日常の気づき・・・もっと読みたいって思った。
それにしても、お子さん4人で、どうやったら動物のことにまで気が回るんかい?
凄いことだ。ホントに。
私ね、何年も前から思いは変わってなくて、でも、書いたことを忘れちゃうので
もし、思いそのままが変わってたら、つじつまが合わなくなってまずいのよ。
なので、一貫した思いでいることは必然。(笑)
投稿情報: マミ~ | 2010/02/08 04:43