ああ、、、、マーク・ライアンのところでの出来事を忘れてしまふ前に書いてしまわねば・・・・。
ところが、時が経つとやっぱす、その時の熱は失われてしまって、時間が経てば経つほど、忘れてしまっても構わないものになってしまふのですねえ・・。ということは、この世の全ては時が経ちさえすれば、何にしても忘れてしまってもいいほど、どーでもいい現象なのかもしれませぬ。
ところが、レーガンさんのようにアルツハイマーになっても覚えていた面影があったらしく、そういうものは時が経っても、そう、たとえ死んであの世に行き、そして生まれ変わった時にでも、次の生でも引き継がれる記憶となるのせうか・・・
レーガンさんはホワイトハウスの模型を見た時に、おつむは確かではなかったにも関わらす、「ここは何か自分にとって特別な場所だ」とおっしゃったそうです。
※あ、すみません。今日はアメリカは日曜日でして、私は食事の時にワインを飲んで酔っ払っております。ので、自分が支離滅裂な文章を書いているかどうかなど、冷静に判断することはできません。その旨どうぞご了承くださいませ。
で、私は世間での出来ごとなど、なんていいますか、結構何に対しても、表面熱くなっているように見える反面、心の中では(どうでもいいじゃないのお?)と思う傾向がありまして、特にただ今、全ての事は在るだけでいいじゃんと、妙に悟っているのか、もしくはただ酔っ払っているだけなのか自分でもよく分からないのですが、とにかく、自分を取り巻く全ての出来事が、ただ存在する”現象”としか思えないのであります。
が、そんな中、自分の中ではただの現象ではなく、これぞ正に確固として信じるべきもの!と思えるモーメント(瞬間)がありまして、しかも、人間よりは動物、特に馬から感じさせてもらえているという、今日この頃であります。でも、それったら一体なんなんだい?
それは”愛よ”。
なんちて、そんな風に言ってしまいますと、なんだか急に軽ーーーい、ニューエージ系の匂いをプンプンさせてしまいそうですが、愛とかじゃなくて、なんていうんでしょうか、ただ存在している・・・Beingという感じなんでございます。分かっていただけますでしょうか?分かってくれる人がいたとしたら、あなたも酔っぱらってる?
今ここに存在するその瞬間、それだけが貴重なことであって、だからどーだとか、こうあるべきだとか何にもなく、それだけでいい。そして、それだけでいい今の状態から、一歩だけ前に進めばいいじゃん。それで十分。なんつー、そんな感じで自分のことも甘やかし、人にも馬に対しても、たったそんだけを期待して生きている、今日この頃であります。
私はよく、「今日この頃」と言っておりますが、それは今日はそう思っているんだけど、自分でも明日は同じようにそう思っているかどうか、確約などできないのであります。なので、今日、今、この時点ではそう思っているだけ、といういい加減な奴でありますから、私のブログなど、本当に適当に流して読んでくださいませ。
さて、マーク・ライアンの所で何があったのか、めちゃ長い前置きの後に、続きをお話しさせていただきます。ああ、さっき食べたピーナッツ・バターが喉に詰まっている・・・
えっと、最後に書いたのは、牛9頭が逃げてそれを捕獲しに行った時のことでした。あの後、帰り道、急にザーザー降りの雨になって、またもやカウボーイたちは、イーハゥーー なんて調子でギャロップをこきやがりまして、私はハラハラドキドキ、心臓が口から飛び出そうな怖さを体験しながらも、なんとかサバイバルいたしました。無事にサバイバルできてなかったら、今頃、闘病記録を書いております。
ま、あの時はただ単に、牛を捕まえに行っただけという、どーでもいいことをして帰って来たのですが、だから何か学んだことがあるのか?と言ったら・・・ああ!そうだ!あるある、あった、あった。
それは、生きるということですた。馬に乗ることは遊びではないのですた。マークのトレーニングは基本、そこにあるのですた。だから、「それができなきゃ、死ぬぞ!」という言葉を彼から何度も聞いたのでした。ああ、今となってはよく理解できました。
アリーナで馬に乗るなんて、そんなもん外に出た時にサバイバルするための練習だぜ!ということだったんですね。確かに、サイドパスができなきゃ、狭い道の横に崖があって、そこを避けるためには馬にサイドパスさせなければ、、、、、死ぬっ!という状況に至ることもあると思います。
ミクシーでお友達になった、カナダのJakeは本物のカウボーイなので、そこんとこ非常によくお分かりであるにも関わらず、私のブログのコメントで謙虚に語ってくださっていますが、でも、ホント、ワイルドな現場に出た時にゃあ、前回のビデオにあるように、氣で馬に乗るとか、はみを使わずに馬に乗るとか、そんなもん鼻くそ丸めて飛ばすみたいに、一気に吹っ飛んでしまうのですよ。
それよりも、馬を生かしたかったら自分も生きなければいけない。サバイバルなんです。馬の口に入ったはみを思いっきり引っ張ったとしても、そうしなければ、人馬共におっ死ぬなんていう時には、それもいたしかたないのです。だけど、都会でずっと生きていると、非常事態に気付き難いということがあるのかなあ。危機に面していても、ボヘ~っとしてしまう傾向はあるかもしれないですね。
それったら・・・あの宮崎の口蹄疫問題に象徴されますな。
と、ここでいきなり、このブログをご覧ください!と、動物病院が登場いたします:
私は、別にこの動物病院の先生を特別に好いている訳でもなんでもないのですが、でも、久々に見る、腹から言葉を発している、正直で真正面で地に足のついた方たちだと感じております。今は本当に大変な時だとは思いますが、生きている実感を感じられない人たちよりもよっぽど、充実した人生を送られているのではないでしょうか。
馬を長年やっている人たちは、馬にはウソをつけないので、妙にバカ正直な人が多いと感じているのですが、牛さんや犬さんやヤギさんを扱っている人たちも、同じなんでしょうね。自分にも正直な人は人にも正直なはず。反面、自分にウソをついていることも気付けない人は、信用できません。
人間は言葉を使い過ぎるからウソつきが多い。自分で自分にウソをついているって気付かないでウソついているのでしょうね。だってさ、自分の気持ちにいつも正直でいるっていうのは、そんなに簡単じゃないもの。特に社会で機能しようと思ったら、いつも正直な自分ではいられなかったりするかもしれません。
ウソをつかない動物は、そのままの姿で生きているのですね。なーんてことを考えているうちに、”全ての生き物は生きるために生きている”という風に、今、なんだか脈略もなく急に思えてきました。
存在する以外に意味などあるのか?
なんちて、哲学的なことを言うために、今日ブログを書き始めたのではないのですが・・・酔っぱらいはすぐに脱線いたします。
マーク・ライアンの所であった話の続きを今日は書こうと思っていたのですが、急に、、、
疲れてしまいました。
おやすみなさい。
それでも、こんな私ですが
ポチっと一回よろしくです

マミ~さん、酔っ払いとは思えない、深い思考ですね。
私はマーク・ライアンとは比べるべくもないサンデーライダーですが、「アリーナで馬に乗るなんて、そんなもん外に出た時にサバイバルするための練習だぜ!」という部分は少し似通っているかもしれません。乗馬はもともと馬場で乗るために発達したのではなく、生活など外で馬に乗るためのもので、外で安全に馬に乗るために馬場で練習したのでしょうから。
投稿情報: 馬きち | 2010/06/28 22:50
Beingは愛そのものやん、マミーったら^^否定しないで。
って、私はシラフよ^^
投稿情報: ラムウェル | 2010/06/29 01:26