会議室で会った彼女は、椅子に深く腰掛け、思ったよりもリラックスしているように見えた。彼女は今、人生のイニシアチブを他人の手に委ねなければ生きていけない。しかし、小さな子どもを二人抱えてホームレスとなった、まだ若いお母さんの、日本人独特の小さな黒い目からは、不安や恐怖は感じられなかった。でも決して、投げやりな態度ではない。どん底に陥ってしまった後でも、子どもたちのために今日、そして明日を生きるには、ある意味開き直るしかないのだろう。彼女には一ヵ月後、一年後の計画などを立てる力はない。今日、明日どうするかが精一杯なのだ。
私には彼女の様子は、思ったよりも緊張していたり、不安に慄いているという感じはなく、素直に状況を受け入れているように見えた。そしてそこに、その若いお母さんの生きる力を見た。ただ決して、彼女が人より秀でて強いため、生きる力があると思ったのではない。母親であれば誰でも、守らなければいけない自分の小さな子どもたちのために、精一杯のことをするという、どん底に陥った時の、動物としての人間の本能である生きる力だ。
人よりも強く生きる力があると、私の価値観において褒め称えるに値するには、今日、明日を生きるところから、そこから先、どう自分で自分の人生を切り開いていくか、知恵と勇気と行動力と前向きな力があるかどうか。そこが問題だと思っている。そして、その部分においては、昨日会った彼女の強さは私には未知である。チャンスがあれば大きく前向きに変われる人もいるだろうし、チャンスがあっても、いつまでも自信がなく、惰性のまま生きることを選択する人もいると思う。大人は好き勝手に選択すればいいが、大人の選択によって子どたちの人生が左右される。少なくともチャンスだけは、子どもたちに平等に与えられる社会であって欲しい。
昨日訪れた場所は、女性と子どもを家庭内暴力などから保護する機関。私は児童保護機関に通訳として雇われ、女性と子どもを保護し一定の期間、住居を提供している機関に一緒に出向いた。その昔、通訳と翻訳を本業としていた頃に、通訳の登録をしていた会社から、「明日、女性保護センターに行くことはできますか?」というメールが来たためだ。これまでも数回、通訳を辞めてからそのようなメールはあったのだが、いつも「もう通訳はやっていません」と断っていた。ただ今回は、たまたまその時間スポっと時間が空いていて、しかも女性保護センターということなので、お金が貰える仕事として引き受けたのではなく、通訳という形でなにか助けになるのであれば、行ってこようと思ったのだ。
頻繁に通訳をやってた頃でさえ、女性保護センターからの通訳依頼は一度しかなかった。その時のケースはこれまた目と耳を覆いたくなる悲惨なケースで、ケースワーカーたちは、その時の日本人女性の話が本当に起こった話であるのか、もしくはその女性には精神的疾患があり、話をでっちあげているだけなのか?それを判断するために、客観的に彼女の話を聞いていたようだ。みな心理学を勉強してきた人に違いなく、また経験の中から、個々の問題にのめり込んで同情をするのではなく、プロとしてどう問題を解決するかという部分に、フォーカスしているようにみえた。
医者でもこのようなケースワーカーたちでも、プロとして悲惨なケースを数々こなしていくには、ある程度、鈍感にならなければやっていけないと思う。感情移入せずに、人が抱える問題を解決していく。中には助けられないケースもある。何年も前の私が通訳として立ち会ったケースも、残念ながら女性保護センターが助けられないケースだった。そのケースは警察が扱う問題であると判断したためだ。そして、相談者の女性はまずは警察に届けるようアドバイスされた。なぜなら、父親による赤ん坊の殺害の話が出てきたためだった。彼女は悲しさと悔しさで泣き続けた。助けてもらえると思って来た機関に見捨てられたと思ったからだ。彼女にとって、警察に通報することは、その後自分の身に何が起こるか分からないという恐怖があった。にも関わらず、女性保護センターでは、その問題は取り扱うことができなかった。それはまるで、サンダルを履いて、足を擦りむきながら息を切らして駆け込んできた、最後の命綱である駆け込み寺の門から、あなたはここへは入れませんと、追い返されたような気持ちだっただろう。
オフィスを出ると、ビルの目の前にあるバス停に、その女性は立ってバスを待っていた。車が運転できない、または車を持っていないというのは、普通に人間として生活するのは困難と言っていいほど、また車を持っていなければ、まるで人よりも劣った人間であるように思われるほど、特にテキサスのような車社会では、車というのは交通の便の話だけでない生きる手段そのものである。駐車場に向かう私は、バスを待っている彼女と軽く言葉を交わしたが、もしセンターの人から注意事項を言われていなければ、彼女を家まで送って行ってあげただろう。しかし、このケースの場合、個人的に関わってはあなたの身に危険が及ぶことがあるかもしれないので、彼女から聞かれても電話番号などは渡さないよう、車で家まで送って行ったりしないよう言われていたので、何かしてあげたいと思っていながら、何もできずにいた自分がいた。惨いかもしれないが、見なきゃよかった、聞かなきゃよかったとはこういうことである。目の前に呼吸ができなくて苦しんでいる人がいたとする。自分は酸素ボンベを持っているのに、それを差し出してはいいけない辛さだ。
何年も前のケースも、昨日のケースも、私が会った彼女たちはアメリカに住んでいながら英語ができない。周りにいる全ての人たちに言葉が通じないというのは、一体どれだけ恐怖なのか、もしかしたら、そのような状況を自分で体感しないと、理解できないかもしれないが、言葉が通じない、言葉が分からないというのは、まるでオールのない舟に乗って、大きな湖に一人でポツンと浮いているように、前にも後ろにも右にも左にも、自分で進むことができず、そして岸へ辿り着くための、助けを求めることもできないような怖さである。私自身、アメリカに来た当初、そのような状況を体験したことがあるが、私の場合は、自分で好きでアメリカに来て、前向きに英語を勉強しようという明るい希望を持っていたので、それさえも楽しかった想い出である。でも彼女たちの場合は、日本で出合った夫たちがアメリカに帰国する際、日本の家族から離れ外国に住むという、外国人の夫の選択である。しかも両者共、小さな子どもを抱えていた。学生としてアメリカにウキウキと留学しに来た、身軽な身であった私とは、同じ外国の生活を見ていながら、アメリカという世界が違う色に見えていたに違いない。
続く
久しぶりに日本語で書くとすらすら滑らかに書けないと仰いますが、どこがですか。ランディーさんほど「筆が立つ」人はざらにはいませんよ。いつものことですが最新の「テキサスで生きる(1)」も流れるような文章で無駄がなく、感情に流されず的確な表現で内容を伝えるその筆力は素晴らしいです。
某出版社の問題が話題になっていましたが、いいではないですか。問題はあるのでしょうが犯罪集団ではないでしょう。ちょっとあくどいやり方もあったのでしょうが騙されたという人自体も、実力を省みず欲張り過ぎたのではないですか?
ただで出版されることになったのはランディーさんの文章力が並ではないからだと思います。私は団塊の世代ゆえ、子育て本とは遠くなっていますが「お馬さん」をテーマに第2作を書いていただきたく、期待して待っております。
投稿情報: 阿蘇 | 2010/12/16 17:56
阿蘇さん
コメントバック遅くなってすみません。
コメントを読ませていただいた時、つい自分の自尊心ちゃんが大きくなって鼻の穴を膨らませておりました。褒められるとうれしい・・・。特に、文章が上手だって褒められるのは、なぜか他のことを褒められるよりもうれしいです。なんでかなあ?自分で自信がないからかもしれませんね。
出版社さんの問題は、今の所みなさんが心配されているようなことは一切なく、編集者さんもとても素敵で親切で、親身になって考えてくださる方です。そしてきっと、よい気持ちのまま、この一軒は終わりになると思っています。
励ましてくださってありがとうございました!
投稿情報: マミ~ | 2011/01/14 15:02