-------------------------------------------------------------------------------------------------------
馬と人間のコミュニケーションの世界をより良きものにするために
馬との関わり方など、テキサスから真摯に想いをシェアするべく書いて行きます。
応援クリックしてくれる?
にほんブログ村
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
40代後半、元米軍兵士に射撃場に連れていってもらい、自動小銃を含めたいくつかの銃の打ち方を教わった。その時、照準を合わせるために照星にフォーカスし、自分の体が呼吸によって小さく動くだけでも、照準が合わなくなることに気づき、呼吸を制してタイミングの良いところで、引き金を引いた。
30代前半、ゴルフの打ちっぱなしをした時、遠くにある木を目標とし、その木にボールを当てるように打つために、自分の体の動きを逆算して考えイメージを作った。そして実際にボールを打つ際には、手足をどう動かすかなどの考えを敢えてマインドから消して、イメージ通りに体が動くよう集中した。
13歳の時、体力測定の垂直とびをする前に、自分が目指す高さの目標を定め、それを飛ぶためにはどうしたらいいか考えた。手を振って反動をつける、膝を曲げることと手の動きの連動、または同時に足首を使って、地面を足の裏の踵からつま先まで蹴るようにするなど、目標の高さから逆算していき、自分の体の動きを考えてから跳んでみた。
上記はどれも上手くいった。そして今、馬を動かす時はどうだろうか?馬をまっすぐ歩かせたり、ゆっくり歩く、早く歩く、ゆっくり速足をする、早く速足をする・・など、手綱を操作せず、または脚を使ってコントロールせず、“想うだけ”で馬に動いてもらいたいとしたら、なにが必要となってくるだろう?ボールや銃とは違い馬は生き物。またジャンプしたり、ボールを打ったり、射撃をするのとは違い、一人でする作業ではなく、意思をもった生き物と一緒に、自分の思った方向に行く共同作業となる。
馬を扱う時に大切なことは、馬を道具のように考え、その道具をいかにメカニカルに思い通りに操縦するかではなく、愛情をベースとしたコミュニケーションと意思疎通ではないだろうか。馬たちから信頼を得るということは、馬の習性から考えると、彼らの命を預けてくれることと同じ。そして馬から信頼されることとは?馬の達人たちはみな同じことを言う。「馬から信頼してもらえれえば、彼らはなんでもやってくれる」と。馬という道具を上手に扱うことを考えるよりも先に、馬を動かす時、いや“動かす”のではなく、馬と“一緒に動く”時には、テクニックも必要かもしれないが、まずは想いありきなのかもしれない。
さて、想うことによって、はじめは何の形もなかったものが作られていく。芸術でも発明でもビジネスでも想うことから創造されていく。個人の人生においても、何を成しえていくか、どういう生き方をするかなど、全ては想うことから築かれている。その想う力の最たるもの『願力』を辞書でみると、「衆生を救おうとする仏・菩薩の誓願の力。神仏に願をかけて、自己の目的を貫こうとする精神力。念力。」と出てくる。仏・菩薩・神仏という言葉を使った解釈だと、願力とは仏教の教えの中のみに存在し、その意味合いは、宗教色の強いコンセプトのように感じてしまうが、逆に仏教の教えに従い、神仏とは己の中に存在していると考えると、願力とは?あくまでも私流に解釈すると、「衆生を救うことを己に対して誓願することで生じる力。内在する隠れた力を願で引き出し、自己の目的を貫こうとする精神力。念力。」になる。
私は4年前45歳の時、初めて馬に跨った時に感じた馬の持つ本当の力、つまり肉体的なパワーである馬力(ばりき)とは違った、馬の存在そのものの馬力(うまぢから)に魅せられ、彼らについて学ぶことを追及しはじめた。それ以来数年の間、(馬の魅力ってなんなのだろう?)と漠然と思ってきて、なぜこんなにも馬は面白いのか、多くの馬好きの人たちがそうであるように、馬にこれほどまで惹きつけられる理由を明確に言葉にすることができなかった。
しかし、最近になってようやく点と点が結ばれて、その理由が徐々にクリアーになってきた。なぜなら机上で想像し頭を使って考えるのではなく、馬たちと毎日、肉体を使って実際に過ごす時間の中で、“体感”として“体験”して「感じて」いるからだと思う。私個人の体験でしかないが、馬力(うまぢから)とは、誰しもが自分自身の中に持っている願力に気づかせてくれ、引き出してくれ、そしてそれを磨いてくれる、ある意味スピリチュアルとも言える力だと感じている。
願力とは、念力とも精神的な力とも、またはもっと大きな言い方をしてしまうと、超能力とも表現できる。が、そもそもその能力は、みなそれぞれが持っているのではないだろうか。ただ現代社会における人間たちの生き方によって、自然の中で動物など他の生き物たちと調和することを必要とせず、あたかも人間がこの地球を支配し、またその権利を持っていると錯覚するようになってから、失われてしまった能力なのかもしれないと思う。
しかし私たちの奥には、未だ眠っている未知の能力が残されているはず。それは決して消滅してしまったのではなく、たまねぎの皮を剥いていくようにベールをはがす事で、隠された能力を実感できる可能性は誰にでもあると思う。馬たちはそんな人間が失った能力を取り戻させてくれる存在だと信じている。ただ馬たちに学ばせてもらえることがあると気づき、動物からの学びを受け取れるかそうでないかは、自分自身がどれだけ心を開けるかどうかにかかっている。
私自身の馬との学びは、馬のことばかり考えている毎日を過ごしながら、一進したかと思えば三歩後退したり、山あり谷あり、楽しいことも悲しいこともあり、満足感もあるけど疑問やできないことだらけ。馬修行によって肉体を伴った精神修行をしつつ、馬との関わりとはまるで凝縮された人生の縮図のようだと感じている。そんな毎日の体感を通じて気づいたことを綴っていきたいと思う。
あけましておめでとうございます。
クリック一回よろすくお願いします
にほんブログ村
最近のコメント