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馬と人間のコミュニケーションの世界をより良きものにするために
馬との関わり方など、テキサスから真摯に想いをシェアするべく書いて行きます。
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願力と馬力(はじめに)
願力と馬力(1)
願力と馬力(4)
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連れてきた馬は血統書があり、一応書類上での名前はあるみたいだが、うちでの呼び名をつけていいかとロニーに聞くと、好きな名前を考えていいということだったので、私は彼女をルーミーと名付けた。ルーミーはイスラム神秘主義スーフィーの詩人でイスラムの神学者で哲学者。時間に関する彼の言葉にこのようなものがある:
“Come out of the circle of time and into the Circle of Love.”
『時間の輪から出て、愛の輪に入りたまえ』
子どもの頃を思い出してみると、時間を気にして遊んでなどなかった。子どもは遊んでいる時には時間のことなど考えない。でも、大人になると遊んでいても時間のことが頭から離れない。時間を計ることは必要かもしれない。しかし、必要以上に時間にコントロールされていることに気づかずに、いつの間にか時間に支配されている。そして、支配されている時間の観念を捨てようと思っても、今度は怖くて手放せない。馬には人間の持つ時間の感覚がないのだとしたら、彼らと関わる時には、彼らの時間に対する感覚の中に飛び込む必要がある。
子どもの頃そうしていたように、大地に立ち自然に囲まれた中で、“時間“を完全に捨ててみる。すると、風がほほを撫でる感触が感じられ、太陽が自分の上に照っていることに感謝でき、木々や草花の息使いが聞こえるようになるだろう。私たち大人はみな子どもの頃に、その感覚を知っていた。だから新たに学ぶのではなく、時間に支配されていたなかった頃を思い出せばいい。
だけれども、私たちが生きている社会の中で、時間を完全に忘れてしまったら生き辛くなる。時間に囚われないと言っても、それは“心の持ちよう”。そう思って使い分けないと、社会に適応できない人になってしまう。馬をやっているテキサス人は、ホントに時間を考えない人が多いが、馬時間を人間時間に導入して生きている人たちに対しては、約束した時間に来てくれたらラッキーくらいに思ってないと、腹が立ってしょうがない。でも、人間との約束よりも、その時の馬との関係の方が大事と、天秤にかけて馬を取る人の気持ちも分からないでもない。
さて、囚われない心というのは、物質に対しても同じだと考える。お金がいくらあろうがなかろうが、お金を使う生活をしながらでも、心がそのモノに囚われていなければ十分ではないか。時間やお金の支配という呪縛から解放されるのは、今、存在しているものを否定して、断固として反対するよりも先に、まずは個々がそれらの囚われから、心が開放されている状態となれれば、自然と消えてなくなるかもしれない。
リアリティーとは全て自分の思考の中で作られていると考えると、まずは社会ではなく、または自分以外のその他大勢の人たちの在り方ではなく、長年親密にお付き合いしてきた、誰よりもよく知っている自分自身のみに責任を持ち、自身の心の在り方を整えることさえできれば、リアリティーはオーガニックに変化していくと信じている。
人間としてこの世にいる状態は、物質世界に生きていることなのだから、スピリチュアリティーだけを追求していたら、歪みがでてくると思う。そういったジレンマを私自身、長年感じてはいるけど、精神世界と物質世界を行きつ戻りつつ、かろうじてバランスを取りながら、人間としてこの地球に生まれてきたことを享受し、毎日を生きている。
時間を捨てて馬の側に立ってみると彼らのぬくもりが感じられる。馬の匂いに包まれる。そして、馬の体に触れていると心臓の鼓動に呼応して、彼らの体が微妙に動いているのを感じられる。そうして立っていると、たとえ5分という短い時間だったとしても、短すぎるとか長すぎるとか審判できない貴重な時を体験できる。
時々、馬たちの側に立って思うことがある。(もし自分が都会に住んでいて、いつも時間やお金に追われた生活をしていたら、精神的なバランスを上手く保って生きらるだろうか?)と。想像するに答えはノーなので、自然の中ではなくコンクリート・ジャングルで生息しながら、平常心を保ち平穏に生きていられる人たちには心から脱帽する。しかし、田舎に住んでいる人でも、時間とお金に囚われていて、毎日不安に生きている人もいるが、私の場合は、自然に囲まれ、馬たちと一緒にいると、彼らが「今、ここに」必要のないことを忘れさせてくれる。
私たちは約4年前にヒューストンというアメリカで第四番目に大きな都市から、ここバストロップの田舎に引っ越してきた。その頃、(荷物をまとめてトラックに積んで、移動すればいいだけなんじゃん?)と思っていた。そして今でも同じ感覚で、いつでもどこにでも行かれる感じはしている。ただ昨日まで毎日会っていた人たちに、今日になったら「バイバーイ」って居なくなるって・・・薄情なのだろうか?でも、そもそも人は一人で生まれて死ぬ時は一人で死ぬもの。
自分のことを知れば知るほど、全てのエレメンツを個々が持っている思える。つまり非情さも、優しさも、猜疑心も、誠実さも、エトセトラ、エトセトラ、自分の中身を見ると、人に見える部分は全部自分の中にもあることが分かる。だから自分も人も変わりはない。なのでこの人とあの人は違って見えるだけで、近い人も遠い人も実は基本的には同じ。そう思えば、毎日会っている親友を愛するのと同じに、たまたま隣の席に坐った知らない人でも、同じように親近感を持って、愛することができる。愛する自分と人は同じなのだとしたら、知らない人を愛したって変じゃない。
友人たちとの楽しい一時は、噛み締めて味わえるように幸福だし、逆にネガティブとも思える馴染みのある人たちとの別れさえも、生きているからこそ味わえる経験だと感謝できるが、ヒューストンから田舎に引越した時、仲良くしていた人たちは、ガッカリしていた様子だったし、また田舎に住めることを羨ましいとも言っていた。
でも、2時間半。たったの2時間半。ヒューストンからバストロップまでは車で2時間半しかかからない。それだけの時間を移動するだけなのに、友人は「田舎に住めて羨ましい」、「自分の人生も変えたい」と言いつつ、仕事が・・・友達が・・・家族が・・・慣れた土地が・・・と、捨てられない理由がさまざまあって動けない。私は不思議に思っている。たったの2時間半で人生が左右されるという現象を不思議だと思っている。ただ、人間として物質的な体を持った状態では、色即是空、空即是色の心でタイムとスペースを”空“にして生きるのは、やはり難しいことなのだろう。
さて、ルーミーがうちに来て約一月後、彼女を一時的に預かるのではなく、ルーミーはうちの子になった。なぜなら、彼女を他所に出せないことが分かったから。彼女は$100でも買い手がいない馬だった。それが奥歯が上に突き出てきているという問題があり、歯を抜く手術をするのに医療費がかかることが判明。なにせ何の調教もされていない馬であるし、血統書付と言っても、今は醜いアヒルの子。医療費とこれまでにかかった餌代を足した金額で売れる馬ではない。問題ありの馬であればなおさら、今のように馬市場が完全に枯れている状態では、タダでも持っていってくれる人はいないだろう。
ルーミーをうちの子にしようかどうか考える前、日本から3ヶ月馬をやりにテキサスに来た、我が家に滞在しているトム(日本人)と私は、彼女のほほが腫れていることを知っていた。1、2日様子を見ていたが、腫れが若干大きくなってきた感じだったので、私たちはすぐにルーミーを獣医に連れて行った。そして抗生物質10日間を与えたのだが、それは効かず、抜くしかないという結論に至った。
手術にはお金がかかる。なので逆にルーミーをロニーに返すわけにはいかなくなってしまった。ロニーの懐具合は手術代など払える状況ではない。ならばうちで面倒を見なければ、一ヶ月の間かわいがり情がわいてしまった、ルーミーの行く先は明るい前途ではなく、光の灯らない暗い道となる確率が大と容易に想像できた。と言っても、我が家だって余裕があるわけではないが、もう仕方がない。生き物と関わるということはこういうことだと、学ばせてもらったと思って授業料を支払うしかない。
続く
P.S.
また雨の日が1、2日続く時に続きを書こうと思っています。
天気の日に家の中にいたら、なんだか後ろめたい気になってしまうのでした。
体をたくさん使っていて、いつも体のどこかが痛いのですが、でも痩せないのよねえ。なんでえ?
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