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馬と人間のコミュニケーションの世界をより良きものにするために
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願力と馬力(はじめに)
願力と馬力(1)
願力と馬力(7)
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ルーミーを我が家に連れて来た後、私は意図的にやったことがあった。野放しにされ人間に慣れていず、野性が強い馬だということ知っていたが、もし、ルーミーのサバイバル・スピリットが強ければ、特に効果は大かもしれないと思ってた方法を試した。まず、彼女を一時入れておくラウンドペン(丸柵)には水と牧草を置かず、何もない状態にした。そこにルーミーと私が入り、トムに水を入れたバケツを持ってきてもらった。そして、ルーミーがバケツに近づこうとする時、ここのリーダーは私であることを理解させるため、私は命綱となる水をガードし、彼女をバケツから遠ざけた。
映画『アラビアのローレンス』のワンシーンに、井戸の持ち主がいない時に、水を井戸から汲み上げた人が、ローレンスの目の前で射殺されるというシーンがある。良い悪いは別として、厳しい自然の中でサバイバルするためには、人間でさえも動物たちのような掟があるのだろう。また終戦前後の神戸で、両親を亡くした14歳の清太と4歳の妹の節子が、生き延びようとする姿を描いている物語『火垂るの墓』では、親戚のおばさんが、自分の子どもに食べさせるのも精一杯なため、清太と節子には食べさせる物がないと伝えられるシーンが、あまりにも強烈で生々しく感じ、今でも強く記憶に残っている。
人間でもサバイバルの状況に置かれた場合、キリストの教えのように一個のパンを分け合うという行為は、なかなかできることではないのだろう。しかし、生きるために必要以上の、有り余る物を持っている者たちが、例えば自然の恵みである水の権利を所有し、神の恩恵を多くの人々に行き渡るよう配慮するのではなく、自分たちの欲とパワーのために利用するということに、罪悪感を抱くことが全くないとしたら、これはもう、自然のサバイバルの掟から外れた動物以下だ。
人間は自分が生きるために必要な物だけでなく、欲のために動物以下になることもある。一個のパンをたとえ自分が飢えても人に分け与えようとする、高潔になって高尚な魂磨きをするか、動物以下の魂に陥る道に身を任せるか、私たちの選択は日々常に試されている。その選択を見張っているのは、己の中に存在している自分自身の目だけ。また人が死ぬ時には、所有してきた物は一切持っていかれず、残るのは自分がしてきた魂の修養だけ。
馬の場合、リーダーの馬が水を飲む前に自分の場所を譲り、立場が弱い馬たちに、水を飲ませてあげるということはない。まずは自分が飲んでから、その後に水飲み場から去り、下の者たちに水を飲ませてあげる。良いリーダーは順番をちゃんと心得ている。しかし中には、自分が水を飲んだ後も、他の馬に無闇に意地悪をし、なかなか場所を譲らない馬や、執拗に自分が所有するものを守るために、他の馬たちを追い掛け回して蹴散らす馬もいるらしい。
以前、我が家に馬用のフェンスと馬房を作る前、ラスティーの牧場の放牧場にルナとサニーを預託してた頃、私は常にラウンド・ベイルと呼ばれる、大きな牧草ロールを置いていた。なので、彼らはいつでも好きな時に、食べたいだけ牧草が食べられた。そこで彼らに新しい馬を紹介する時、サニーとルナはきっとお腹は空いてなかっただろうにも関わらず、決して牧草を新しい馬に(どうぞ好きなように食べてください)と優しく譲りはしなかった。
馬たちを観察していると、まるで人間のようなコミュニケーションが無言の中で展開されている。サニーとルナは、新入りが牧草ロールに近づこうとすると、耳を後ろに伏せて新入りを蹴散らし、自分たちの所有物である牧草に近づけないようにする。かと言って、お腹が空いていてムシャムシャ食べている様子でもなく、牧草を少しずつモグモグとつまみながら、横目で新入りを観察しつつ、(おい、よく覚えておけ。俺たちがここの主でリーダーなんだ。お前はあくまでも新入りで、好きなようにはさせないんだぞ。)と言っているようである。
しばらくして、新入りの態度がそのことを受け入れたかのように、元から居る馬たちをリスペクトし、無謀に牧草に近づくのではなく、(了解しました。では、私はあなたたちの立場を尊重し、ここで静かに待つことにします。)という態度に変わると、サニーはルナに、まるで目配せをして、(おい、この新入りはようやく自分の立場を分かったようだから、こいつにも食べさせてあげるぞ。)と語るがごとく合図し、2頭は牧草から離れる。そうして、新入りの馬はやっと牧草にありつけると同時に、上下関係の調和が保たれ、数頭仲良く同じ放牧地で共存できるようになる。
私はこのような馬たちのやり方を取り入れる方が、新入りの馬をいきなり人間のやり方で調教し始めるよりも、馬との上下関係を作り易いのではないかと考えた。そして、ただ単に彼らの真似をさせてもらう。水をあげる時も、牧草をあげる時も、そして餌をあげる時も然り、人間がリーダーとなり、いつどうやってあげるかは私が決める。ルーミーはそのような掟をすぐに理解した。そして、私が牧草や餌をあげる時には、一歩二歩三歩下がって待つようになった。他の人間が餌をあげる時も、全く同じシステムにする。そうすることで、人間を見たら食べ物欲しさに境界線を超えて、人間のスペースにぐいぐいと入ってくる失礼な馬ではなく、ルーミーはちゃんと躾された、礼儀正しい馬になるだろう。
馬はかわいいので甘やかしたい衝動は理解できる。ただ、礼儀正しい馬にするための躾をせず、自分の都合で甘やかし過保護にするのは、馬に対する愛ではないと思う。人間の子どもも然り。子どもをきちんと躾して教育しなかったら、礼儀もモラルもない無礼なまま、その子がそのまま大きくなった時、苦労するのは誰だろうか?馬も同じで、毎日の小さな躾は、その後の馬の成長にも重要なキーポイントになると考えている。
命綱となる水、牧草、餌をあげる時の躾に加え、ルーミーとの関係を築くために、彼女を外に散歩に連れて行くということをした。その際、ただ歩くだけでなく、もし私がルーミーの母馬だったらどうするか考えながらやってみた。それは、牧草のあるいい場所に案内し、連れて行ってあげるということ。そして、良いスポットを見つけたら、そこで躾をしながら、牧草を食べさせてあげる。
うちの外に出ると、先隣には犬たちがいる。犬たちがガオガオ、ワンワン吠える前で、私は敢えて止まり、自分が犬のいるフェンスとルーミーの間に立つ。そして、彼女を守っているのは私であることを教える。同時に犬たちにも心の中で、(私たちは怖い存在じゃなから、大丈夫よ。安心して。)と話しかけていると、危険な相手ではないと分かれば、彼らは次第に吠えるのを止める。犬も馬も人間も一緒に共存するという空気になったところで、その場から立ち去り先に進む。ルーミーにとっては全て新しい体験であり、これから馬の食肉処理場に連れて行かれるのか、それともパラダイスに連れて行かれるのか分からない。そんな馬に安心してもらえるのは、ハンドルしている自分のマインドから放たれる、エネルギーでしか伝えることができない。
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